昭和四十八年(1937)十月、世界を激震させる大事件が起こりました。OPEC(石油輸出機構)加盟国のイラン、イラク、サウジアラビアなど六ヶ国が原油価格を一気に70パーセントも引き上げたのです。いわゆるオイルショックです。さらに翌昭和四十九年(1974)一月には128パーセントも値上げしました。わずか三ヶ月で四倍近く(287パーセント上昇)になったのです。
中東の産油国が石油価格を上げたのは、第四次中東戦争で、アラブ諸国がイスラエルに苦戦したことが大きな要因でした。サウジアラビアを中心とするアラブ諸国は、イスラエルを支援する国に対して、突如、石油輸出を制限すると宣言しました。日本はイスラエル支援国家ではあいませんでしたが、アメリカと同盟を結んでいる関係で、石油禁輸リストに入れられたのです。
日本は急遽、イスラエル軍は占領地から撤退し、占領地のパレスチナ人の人権に配慮するようにとの声明を出しました。この声明発表はアメリカの反発が予想されるものでしたが、背に腹は替えられない日本政府の苦渋の決断でもありました。さらに当時の副総理がアラブ諸国を訪問し、禁輸リストからの除外を要請し、ようやくリストから外してもらうことに成功します。この時の外交は、戦後の日本における数少ない成功事例であったと私は捉えています。
余談ですが、昭和四十九年(1974)の石油危機期間中、選抜高等学校野球大会ででは、それまで慣例となっていた表彰式の演奏曲「見よ、勇者は帰る」(ヘンデル作曲のオラトリオ「ユダス・マカベウス」の中に一曲)の使用をやめ、オリジナル曲に差し替えるということまでしています。「ユダス・マカベウス」は、紀元前の物語ではありますが、アラブと敵対するユダヤ戦士を称える曲だったからです。
すんでのところで石油禁輸は免れたものの、石油価格の高騰は、ほとんどのエネルギーを石油に依存していた日本にとっては大打撃となりました。公共事業は軒並大幅に延期され、石油を原料とする様々な製品の生産が減少しました。そのため、石油とは関係のない製品(トイレットペーパーや洗剤など)までもが人々に大量に買い占められる事態にも陥りました。
また電力も石油に頼っていたことから、至るところで電気の節約が実施されました。
デパートのエスカレーターが運転中止となり、都会にネオンサインが深夜には消されました。民放テレビも深夜放送は中止になり、NHKは二十三時以降の放送を取りやめました。
昭和二十九年(1954)より続いていた日本の高度経済成長は、この年をもって終わりを告げました。しかし官民挙げて省エネルギーに取り組んだ結果、エネルギー消費抑制に成功し、また省エネルギーにつながる技術革新を進ませて、危機を乗り越えることに成功しました。
そしてここからは安定成長期と呼ばれる時代に入っていきます。 |
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