~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
沖縄復帰
昭和四十三年(1968)六月、アメリカに占領されていた小笠原諸島が二十三年ぶりに返還されたのに続いて、昭和四十七年(1972)五月、ついに沖縄が返還されました(同じくアメリカに占領されていた奄美大島は昭和二十八年【1953】に返還されていた)
沖縄の日本復帰は日本人そして沖縄県人の悲願であり、その運動は沖縄県人たちが戦後ずっと行なってきましたが、長らくアメリカに黙殺されてきました。
沖縄返還に最初に動いたのは岸首相です。昭和三十二年(1957)、岸はダグラス・マッカーサー二世駐日米大使(連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの甥)に沖縄返還を要求しましたが、アメリカは在沖縄米軍基地の整理・統合には時間を要すると判断し、その要求を受け入れませんでした。岸の」次の池田首相は前述したように国防や領土問題にはあまり関心を持たず、アメリカに対して沖縄返還要求も行なわず、返還はまったく進展しませんでした。
池田の後の佐藤栄作首相(岸の実弟)は再び沖縄返還に動きました。昭和四十年(1965)、首相に就いたばかりの佐藤は初の訪米で、ジョンソン大統領に対して、沖縄の早期反感を求めました。佐藤はさらに外務省の正式ルートによる交渉ではなく、直接、ホワイトハウスと秘密交渉を行ないました。この時、大きく貢献したのが岸元首相です。昭和四十四年(1969)、岸はニクソン大統領と会談し、「沖縄返還が長引けば、日米同盟の離反を狙う共産主義国による工作が活発化する」と言って返還の重要性を訴えたのです。
この頃、アメリカはベトナム戦争激化によって、日本国威内のアメリカ軍基地の重要性は非常に高まっていました。それだけに、日本において反米論が高まり、十年の期限を迎える「日米安保条約」が仮に延長されない事態となると、ベトナム戦争継続も危ぶまれるという状況でした。そこでアメリカは、沖縄を日本に返還する代わりに日米安保条約を延長しようと考えました。
この際ネックとなったのが、「核兵器を作らない、持たない、持ち込ませない」という日本の非核三原則でした。沖縄の基地に核兵器があるのは公然の秘密だったからです。アメリカは、ソ連や中華人民共和国に対する抑止力のためにも、沖縄の核は必要と考えていましたが、非核三原則のある日本に沖縄を返還すれば、沖縄のアメリカ軍基地に核兵器を置くことが出来なくなります。
それでも沖縄返還には密約がありました。その第一は有事の際、アメリカは、沖縄に核兵器を持ち込み、貯蔵する事が出来るということ。第二は、返還に要する費用のほとんどを日本が負担するということでした。加えて沖縄の基地はそのままアメリカ軍が使用できるとされました。
日本政府は沖縄を取り戻すため妥協し、これらの条件を呑み、その結果、ついに沖縄の本土復帰が実現しました。実はこれはある意味で歴史的な偉業といえます。というのは、戦争で奪われた領土を外交で取り戻したケースは世界史でもほとんど例がないからです。いかに佐藤首相がしたたかな交渉を行なったかがわかります。
ただ、密約に関しては、今日でも賛否両論、様々な見方があります。しかしもしこの密約がなければ、当時、沖縄は日本に返還されなかったでしょう。もしかしたら令和の今も沖縄はアメリカの施政下に置かれていた可能性もあります。佐藤はきわめて高度な政治的駆け引きをしたと言えます。ただ、惜しむらくは、沖縄の基地問題が禍根として残った事です。
ところで、アメリカが沖縄を返還したもうひとつの理由はアメリカの原子力潜水艦にあると私は見ています。この少し前、アメリカは原子力潜水艦に核ミサイルを搭載する技術の開発に成功していました。これにより世界のいかなる海からでも核ミサイルを打ち込むことが出来るようになり、沖縄は核ミサイルを装備するアジアで唯一の拠点ではなくなっていたのです。もっとも沖縄返還に関する公式文書には、当然ながらこのことは一行も書かれていません。
余談ですが、ベトナム戦争終結後、平成三年(1991)末にはソ連が崩壊したことで冷戦の危険が去り、沖縄のアメリカ軍基地の重要性は低下したかに思えました。
ところが、近年、凄まじい勢いで軍備を拡張し、、常設仲裁裁判所の判決も無視して南シナ海に巨大な軍事基地を作り、さらに東シナ海から太平洋に進出しようと目論む中華人民共和国の存在と、核ミサイルの開発に成功した北朝鮮の存在によって、沖縄のアメリカ軍基地の重要性はむしろ高まっています。
2026/02/27
Next