昭和三十五年(1960)、岸の後を受けて首相となった池田勇人は、マスメディアに対して低姿勢の態度を取り(岸前首相の態度とは真逆に近い)、自民党結成時のもう一つの党是であった「自主憲法制定」をいったん棚上げし、経済政策に力を注ぐことにしました。元大蔵省(現在の財務省)の次官であった池田は、今後十年間で国民所得を二倍にするという「所得倍増計画を掲げました。当時は日本を軍事的に脅かす国はソ連しかありませんでしたが、その脅威は日米安保の改定によってほぼ取り除かれていました。そのため「交戦権がない」という安全保障上の大欠陥を含む日本国憲法の改正を急ぐ理由がなかったことも大きかったのです。
日本の景気は相変わらず好況でした。昭和三十三年(1958)からの好景気は神武天皇より前の天照大神が天の岩戸から姿を現わして以来と言う意味で「岩戸景気」と名付けられました。日本は、何年にもわたって年率10パーセントを超える成長が続く驚異的な高度経済成長によって、まさに奇跡ともいえる復興を成し遂げます。
この章の冒頭でも述べましたが、この復興を成し遂げたのは政府ではありません。
政府が「所得倍増計画」を打ち出し、号令をかけるだけで復興出来るものなら、世界の発展途上国はすべて豊かになっているはずです。日本の復興を成し得たのは、ひとえに国民の力です。
昭和三十九年(1964)、日本は東京オリンピックを開催して、新幹線を開通させました。この二つの大きなプロジェクトで「日本復活せり」を高らかに世界に示したのです。
オリンピックの翌年の昭和四十年(1965)から、「岩戸景気」を上回る「いざなぎ景気」(日本列島を作ったとされる伊弉諾尊から命名)と呼ばれる好景気が続き、昭和四十三年(1968)、ついにGNP(国民総生産)で西ドイツを抜き去って、アメリカに次ぐ世界第二の経済大国となります。大東亜戦争で三百万人以上の国民の命と海外資産をすべて失い、東京をはじめとする全国の都市を空襲で焼き尽くされ、戦後は多くの国に莫大な賠償金を背負わされた国が、わずか二十年余りで完全復活を成し遂げ、かつての敵国アメリカの背後に迫ったのです。これを「奇跡」といわずして何というのでしょう。もちろん国際復興開発銀行(世界銀行)からの借款や「占領地域救済政府基金(ガリオア資金)などの恩恵もありましたが、そうした借款や基金で世界最貧国遺レベルの国がわずか二十年余りで世界世界第二位の経済大国になるはずがありません。
しかも近代産業に必要なほとんどの資源を輸入に頼るしかない状態で、様々な創意とと工夫により、多くの優れた製品を作って海外に輸出することで、多額の貿易黒地を生み出しました。日本の家電メーカーは世界が真似のできない高品質な製品で多くの外貨を稼ぎ出し、また後には自動車メーカーも海外マーケットを席巻します。戦後の日本は「モノづくり」に活路を見出したのです。これを成し遂げたのは、日本人の勤勉さと研究熱心さ以外何物でもありません。
余談ですが、東京オリンピックを開催した昭和三十九年(1964)に、昭和天皇が日本の復興と無事を祈り、崇徳上皇の御霊を鎮めるために、香川県坂出市に勅使を遣わし百年ぶりの式年祭を執り行なわせています。崇徳上皇の怨靈が鎮められたことが日本が復刻を為し得たとは、私も思いませんが、この式年祭は、天皇が日本と日本国民の安寧と平和を祈る存在であるということをあらためて私たちに教えてくれます。
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