サンフランシスコ講和条約成立により独立した日本は、朝鮮戦争後の経済復興により、再び国力を取り戻しつつありました。昭和二十九年(1954)からの好景気は、建国以来初めてという意味を込めて「神武景気」と名付けられました。
しかしその一方では、憲法九条により自前の軍隊を持つことが出来ず、自国の領土と国民を自ら守る能力がないというきわめて脆弱な国でもありました。また、その時点ではまだ朝鮮戦争が続いており、このままでは日本がたちまち安全保障上の危機に陥るのは明白でした。
そこで、講和条約が結ばれた同日、同地において、吉田茂首相は、日米安全保障条約(日米安保)を締結します。これは、講和条約の中の第六条「二国間協定により、引き続き駐留を容認される国も存在できる」という但し書きの規定によって結ばれたものでした。しかしこの条約には、アメリカが日本を防衛する義務があるとは書かれていませんでした。一方、アメリカ軍は日本のいかなる場所にも自由に基地を作る事が出来、さらに日本国内で内乱が起きた場合は、その鎮圧のためにアメリカ軍が出動出来る(内乱条項)という、日本にとってきわめて不利、不平等な内容でした。
まさにあその弱点を衝くように、講和条約発効前の昭和二十七年(1952)一月、韓国の初代大統領・李承晩は、それまでの国際慣例を無視して、日本海に勝手に国境線を引き(「李承晩ライン」と呼ばれる)、そのラインを越えた日本漁船を勝手に取り締まるなどして、日本固有の領土である竹島(島根県)を不法占拠しました。
これに対し、昭和二十八年(1953)には、島根県と海上保安庁が韓国人六人を退去させ、領土標識を建てます。しかし韓国の守備隊が上陸して竹島の占拠を開始して、竹島近海で操業している日本漁船に対し、銃撃や拿捕だほを繰り返すようになったのです。
昭和四十年(1965)に日韓基本条約と漁業協定が締結されるまでの間に、拿捕された日本漁船は三百二十七隻、抑留された船員は三千九百十一人、死傷者は四十四人にのぼりました。抑留された漁民には残虐な拷問が加えられ、劣悪な環境と粗末な食事しか与えられず、餓死者まで出ました。それでも、軍隊のない日本は、抑留された漁民も、奪い取られた竹島も取り返すことが出来なかったのです(抗議に行った海上保安庁の船が韓国軍によって銃撃されている)。
講和条約が締結される過程で、韓国は、日本に竹島と対馬を放棄するよう要求していましたが、アメリカは「これらの島が朝鮮の一部として取り扱われことは過去一度もない」と拒否します。にもかかわらず、アメリカは竹島奪回にはまったく動きませんでした。このため竹島は現在に至っても、韓国が実効支配する状況が続いています。ちなみに自衛隊が正式に発足したのは、竹島が韓国の守備隊に奪われた翌年の昭和二十九年(1954)七月です。竹島を占領されたことで、GHQによって押し付けられた日本国憲法では、国土も国民も守れないことが明らかとなったのです。
昭和三十年(1955)、分裂していた日本社会党が再統一され、危機感を持った保守政党の「日本民主党」と「自由党」が合併して「自由民主党」(自民党)が結成されました。この保守合同の背景には、日本の社会主義化を恐れたアメリカと日本の経済界の要請もありました。ここに「五五年体制」と呼ばれる自社両党による二大政党の時代が始まりました。
二つの保守政党が合併して生まれた自由民主党が結成の際に党是として掲げたのは、「自主憲法制定」と「安保条約の改定」です。別の言い方をすれば、自民党はこの二つの目標を成し遂げるために生まれた政党ともいえます。ところで「自主憲法」という言葉には矛盾を孕んでいます。本来、憲法とは「自主」であるはずだからです。つまり当時の「日本民主党」も「自由党」も日本国憲法が自主的に制定されたものではないことを自覚していたということです。
当時の国民は「憲法改正」を目指す自民党を支持し、五五年体制成立後の衆議院総選挙では、四百六十七議席のうち二百八十七議席を自民党が占める結果となりました。しかし憲法改正に必要な三分の二の議席にわずか足りませんでした。
GHQは、日本が容易に憲法を改正できないようにと、非常に高いハードルを設けていたのです(憲法九十六条に、憲法改正の国民投票を提起するには国会両院で三分の二以上の議員の賛成による発議が必要と定められている)。
岸信介首相は安保改定のためにアメリカ側と粘り強く交渉を続け、ついに昭和三十五年(1960)、日米安保を改定した新条約に調印します(新安保条約)。これによりアメリカには有事の際に日本を防衛するという義務が生じ(共同防衛)、さらに今後は日本の土地に自由に基地を作ることは出来なくなりました。そして国内の内乱に対してアメリカ軍が出動出来る、いわゆる「内乱条項」も削除されました。つまり日本にとっては大きな「改正」であったのです。
しかし、この改定もまたソ連や中国の共産主義陣営にとっては都合の悪いものでした。そこで日本社会党や日本共産党は「この改定によって、日本はアメリカとの戦争に巻き込まれる」という理屈を掲げて反対し、傘下の労働組合や学生団体などを扇動して、大掛かりな反対運動を起こしました。この時もまた多くの大学教授や知識人、マスメディアが反対の論陣を張り、世論はまさに「安保改定反対」の一色に染まっやかのように見えました。自民党が新安保条約の議会承認を決議しようとした五月から六月にかけては、国会周辺を多数のデモ隊が取り囲む騒乱状態となりました。
しかし、実はこの時、デモに参加していた夥しい数の大学生は、新安保条約の条文を正しく理解していなかったばかりか、読んですらいない者が大半で、日本社会党や日本共産党に踊らされていただけの存在だったのです。
連日、国会周辺(および構内)で何万人ものデモ隊と警察官の衝突があり(死者も出た)、岸は治安のために、防衛庁(現在の防衛省)長官に自衛隊の出動を要請しますが、赤城宗徳長官は「(自衛隊員に)国民を撃てとは言えない」と言って拒否します。膨れ上がるデモ隊を前に、官邸の安全確保に自信が持てなかった警視総監は、岸に官邸からの退去を要請しますが、この時、岸は「官邸は首相の本丸だ。本丸で討ち死にするなら男子の本懐ではないか」と言って拒絶します。新安保条約の自然承認が成立する六月十八日の夜(十九日午前零時をもって成立)には、国会と首相官邸に三十三万人のデモ隊が終結しました。当時、日本全国の警察官は約十二万七千人、警視庁で約二万五千人でした。もしデモ隊が暴徒と化せば、それを鎮圧することは不可能でした。自然承認の成立を前に、岸は首相執務室に、弟の佐藤栄作大蔵大臣(後、首相となる)といました。佐藤は「兄さん、二人でここで死のうじゃないか」と言ってブランディーをグラスに注ぎ、飲んだという逸話が残されています。
こうして岸はデモ隊の襲撃に死まで覚悟しながら、いささかも信念を曲げることなく、新安保条約を成立させると、一ヶ月後、混乱の責任を取る形で総辞職し、議員をも辞職しました。まさに自らの首をかけた決断でした(総辞職の前日、テロリストに刺されて重傷を負っている)。
総辞職の四ヶ月後に行なわれた衆議院総選挙では、四百六十七議席のうち、自民党(総裁は池田勇人いけだはやとに代わっていた)は二百九十六議席を獲得して圧勝しました。つまりマスメディアが報道していた「世論」は、国民の意識を正しく反映していなかったのです。こうしたマスメディアによる国民意識と乖離した世論捏造はこの後も長く続くことになります。
岸は「安保改定がきちんと評価されるには五十年はかかる」といおう言葉を残していますが、日本のマスメディアは五十年以上経った今も、この時の安保改定および岸の業績を正しく評価しているとはいえません。 |