昭和二十五年(1950)六月、北朝鮮はソ連の支援を受けて韓国に侵攻しました。
いわゆる「朝鮮戦争」の勃発です。北朝鮮は、一時は韓国全土をほぼ占領しましたはが、マッカーサー率いる国連軍(実質アメリカ軍)が仁川に上陸すると戦況が一変します。国連軍は中国国境近くまで北朝鮮軍を押し返しますが、ここで北朝鮮の軍に中国の人民解放軍が加わったことで、戦争が長期化しました(昭和二十八年【1953】、停戦)。この間、韓国から日本への密航者が急増することとなります。
日本に駐留していたアメリカ軍が大規模に朝鮮半島に出撃したことで、日本国内の治安維持のための部隊が新たに必要となり、GHQは日本政府に対し警察予備隊を作ることを命じました。これが保安隊を経て後に自衛隊となります。他方、日本は朝鮮半島で戦うアメリカ軍に大量の軍需物資その他を供給することとなり、一気に経済が息を吹き返しました(「朝鮮特需」と呼ばれる)。
冷戦が深刻化する国際状況の中、日本の急速な復興を見たアメリカは、日本の独立を早めて、自由主義陣内に引き入れようと考えました。実はこの時まで、日本の独立はいつになるかわからなかったのです。
昭和二十六年(1951)九月、日本は四十八の国々とサンフランシスコ講和条約を締結するこおとなりました。この条約を結べば、文字通り戦争は完全に終結し、日本は主権を回復して独立国となることが出来ます。しかし日本の独立は、ソ連にとっては非常に都合の悪いことでした。独立した日本が西側の自由主義陣営に加わることは明白だったからです。敗戦によって国力は大きく削がれたとはいえ、その潜在能力は東側陣営にとって脅威でした。
そこでスターリンは日本の旧コミンテルン一派に「講和条約を阻止せよ」という指令を下したといわれています。これを受けて野党第一党の日本社会党と日本共産党は、講和条約締結に反対しました。この時、社会党の中ににも講和条約に賛成した人々がいたため、社会党は分裂しました(昭和三十年【1955】再統一)。さらい時の東京大学総長をはじめとする多くの大学長や学者、知識人も反対の論陣を張ります。彼らの多くは「公職追放」の後、大学にはいってきた社会主義者でした。
彼らが講和条約締結の反対理由として揚げたのは、「日本は連合国と戦ったのだから、すべての連合国と講和しなければ、戦争の終結にはならない」というものでした。
しかし当時、日本の講和に反対していたのは、ソ連とその衛星国家チェコスロバキアとポーランドの三国のみだったのです。日本と戦ったアメリカやイギリス、フランスなど世界四十八ヶ国という圧倒的多数の国との講和を、「単独講和」と言い換えたのは悪質なイメージ操作以外の何物でもありません。にもかかわらず、朝日新聞をはじめとする当時のマスメディアも、「単独講和」がよくないことであるかのような報道を繰り返しました。
当時のメディアと知識人は自らのイデオロギーと既得権確保のためなら、日本を独立させなくてもかまわないと考えていたのです。主権もなく、したがって外交の権限もなく、外国(アメリカ)の軍隊が国土と国民を支配している日本の状況すらよしといていたのです。
戦後わずか六年で、日本の言論界はこれほどまでに歪んでしまっていますた。時の首相、吉田茂は、東京大学総長の南原繁の名を挙げ、彼を含めて牽強付会けんきょうふかいの論をふりかざして講和に反対する学者たちを「曲学阿世きょくがくあせいの徒」と呼びました。これは「世に阿るインチキ学者」という意味の言葉です。
それでも約半年後の昭和二十七年(1952)四月、講和条約が発効して、日本は戦後七年経ってついに主権を回復し、悲願であった独立を果すことが出来ました。
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