~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
日本改革
前述したようにGHQの一番の目的は、日本を二度とアメリカに歯向かえない国に改造するこtでしたが、共産主義者やそのシンパは、日本を大きな社会実験の場にしようとも考えていました。メンバーの中には、日本をいい国にしたいという理想を持っている者もいましたが、自らが理想とする「人民国家」を作るために、本国でも行なえないような大胆な改革を試みたのです。
昭和二十年(1945)十月、マッカーサーは幣原内閣に「五大改革」を命じました。それは「秘密警察の廃止」「労働組合の結成奨励」「婦人解放(婦人参政権)」「教育の自由主義化」「経済の民主化」でした。そして「経済の民主化」のために行なった二つの大きな改革が「財閥解体」と「農地改革」でした。
戦前の日本は三井、三菱、住友、安田という巨大財閥をはじめ、多くの財閥がコンツェルンやトラストを形成しており、各産業は財閥の独占あるいは寡占かせん状態にありました。また財閥とは別に「政商」として国や政治家と結びついている者もいました。
これらは自由な資本主義の発展を妨げる存在でもありました。そこでGHQは八十以上の財閥をバラバラにして、分社化したのです。
これにより証券の民主化が進み、近代的な資本主義へと移行しました。また一部の財閥に独占されていた市場が解放されて、数多くの新興企業が誕生しました。東京通信工業(ソニー)やホンダなどは戦後に急成長を遂げた代表的な企業です。もっともその後、解体された財閥の旧グループは徐々に結集し、再び大企業として復活します。
GHQが行なったもう一つの大きな改革は「農地改革」でした。
明治以降、飢饉や不況などで多くの農家が土地を失い、地主の農地を耕す小作農となっていました。そこでGHQは、小作農が耕している地主の土地を政府が強制的に買い上げ、小作農に格安で売り渡す政策を行なったのです。これにより、多くの小作農が土地を持つ自作農となりました。
この改革は実は戦前の日本でも検討されていましたが、財閥や政界有力者、華族の反対が強く、実現出来ずにいました。それをGHQは一種の社会実験として行なったのです(こんなことはアメリカでは絶対に出来ないことであった)
「農地改革」は、現代でも進歩的文化人といわれる人々に高く評価されていますが、理由は多くの小作農に土地を与えたからというものです。実際、GHQは小作農を、ロシアにおける農奴のようなものとイメージしていました(これは戦前の朝鮮人を農奴と見做していたのと似ている)。しかし現実には日本の地主の多くは大地主ではなく、小作農からの搾取もさほどありませんでした。
また一見公平に見える農地改革でしたが、弊害も小さくありませんでした。農地が細分化されたことによって効率が悪くなり、また兼業農家が多くを占め、中核的農家が育たなかったのです。戦後、日本の食料支給率が先進国の中で最低水準になった原因の一つが農地改革だとする考え方もあります。
しかも農地の転売には制約を設けなかったため、後に、米を作らなくなった都市近郷の農家が土地を宅地業者に売却し始めました。それに対して政府がほとんど制限をかけなかったために、高度経済成長の住宅ブームで地価は高騰し、一般庶民が土地を手に入れることは容易ではなくなるという状況が生まれました。その結果、住宅問題と土地問題は、復興期を経た高度経済成長期以後の大きな社会問題となってしまいます。また(地主が分散したことで)都市開発や道路建設等の用地買収交渉が困難となり、これが経済の停滞につながりました。
農地改革には、もう一つ見過ごせない弊害があります。それは全国の津々浦々にあった神社がさびれたことです。地方の神社の建物や祭典を長年にわたって支えて来た各地の地主たちが財力を失ったことで、多くの小さな神社が荒廃しました。大きな神社も所有していた田圃や山林などを取り上げられたことで多くが荒廃していきました。
こうして日本の伝統文化の拠点であった神社が、戦後、急速に衰退していったのです。
しかしながら「財閥解体」と「農地改革」はGHQでなければ出来ない大胆な改革ではありました。弊害もありましたが、この改革があったために、戦後の日本は戦前と比較してきわめて平等性と自由競争に富む社会となったといえなくもありません。
2026/02/11
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