~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
占領軍と朝鮮人の犯罪
占領中、アメリカ兵に殺害された日本人や、強姦された婦女子は夥しい数にのぼっているといわれていますいが、その実数は定かではありません。というのも、当時の日本の警察は、アメリカ兵の犯罪を捜査することも検挙することも出来なかったからです。また新聞も報道を禁じられていました。
日本人に対して狼藉を働いたのはアメリカ兵だけせはありません。戦前から日本にいた朝鮮人の一部が、日本人に対して、殺人、強盗、傷害、強姦、窃盗などを働いたのです。彼らは焼け跡の一等地や駅前の土地などを不法に占拠し、あるいは日本人の土地や家屋を奪いました。
実は、GHQの政策が大いに関与していました。当初、朝鮮人は「戦勝国民」に準じると自称したからです。前述したように、占領初期は、新聞で朝鮮人を批判することは許されず、一部の朝鮮人はそれを盾に数々の乱暴狼藉を働いたのです。
GHQが朝鮮人を特別扱いにした理由は、「日本人は朝鮮人を奴隷扱いにしていた」という誤った認識を持っていたからです。GHQは戦争によって「奴隷を解放した」と考えていたのです。
はじめは朝鮮人の行動を黙認していたGHQも事態を重く見て、昭和二十一年(1946)九月三十日に、「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」を出し、「在日本朝鮮人連盟」が勝手に発行した乗車券による朝鮮人の無賃乗車を禁止しました。つまり、この時までは事実上、朝鮮人の横暴が認められていたのです。
それでも不逞朝鮮人の日本人に対する乱暴は収まりませんでした。しかし当時の警察官はGHQにより拳銃の所持を認められておらず、武装した朝鮮人らを逮捕することが困難でした。また逮捕しても、警察署が襲われ、犯人を奪い返される事件も頻発しました。昭和二十年(1945)から二十二年(1947)にかけてだけでも、警察署や派出所が朝鮮人に襲撃されたり警察官が殺害されたりした事件が十件以上も起きています、
このことは当時の日本社会にとっては大きな問題でした。事態の深刻さを憂慮した吉田首相は、昭和二十四年(1949)の八月下旬から~九月初めにかけて(推定)、マッカーサーに向けて「在日朝鮮人を半島へ帰還させてほしい」という旨の手紙を書いています。吉田は手紙の中で、約百万人の在日朝鮮人の約半数は不法入国者であることを書き、昭和二十年(1945)八月から昭和二十三年(1948)の五月までの期間に朝鮮人が犯した刑事事件のデータが付されています(それによれば、四年間で七万千五十九件の上る)。吉田は手紙の中で、マッカーサーにこう提案しています。
「(1)原則として、朝鮮人はすべて送還され、その費用は日本政府の負担とする」
「(2)日本に在住を希望する者は、日本政府に許可を申請すべきものとする。在住許可は、日本経済の再建に貢献し得ると見なされるものに与えられる」(『吉田茂=マッカーサー往復書簡集[1945-1951]』袖井林二郎編訳より。底本記載の所在:マッカーサー記念館所蔵史料、レコード・グループ5、ボックス3)
マッカーサーと吉田がこの件で具体的にどこまで話し合ったかは不明ですが、吉田の提案は実行に移されることはありませんでした。
ただGHQは同年、団体等規制令の「暴力主義的団体」として「在日本朝鮮人連盟」に解散を命じました。その後、同団体は「在日本朝鮮人総聯合会」(朝鮮総連聯)へと発展していきます。
ところで当時の新聞や官公庁の発行物には、在日朝鮮人や在日台湾人に対して「第三国人」あるいは「三国人」という言葉が使われています。これはもともと「戦勝国、敗戦国いずれでもない第三国の国民」という意味の終戦処理に伴う行政用語で、事実上、朝鮮人と台湾人を指していました。GHQが彼らを「Third nation」と呼んだことが由来だと言われています(他説もあり)。本来は差別用語ではありませんでしたが、「三国人」と呼んだことから、いつしか差別用語の一つと捉えられるようになりました。
在日韓国・朝鮮人に関する社会問題は、その後も日本社会に根深く残ることになります。
コラム-23
公職追放および教職追放は、GHQにとっても大きな誤算となりました。
GHQの後押しによってメディアと教育界に入り込んだ社会主義者や共産主義者たちが大きな勢力を持ち始めたのです。一般企業でも労働組合が強くなり、全国各地で暴力を伴う労働争議が頻発しました。これらはソ連の指示があったともいわれています。さらに昭和二十四年(1949)、中国共産党が国民党に勝利して共産主義国を樹立したことにより、日本の大学やメディアでもソ連や中華人民共和国を礼讃する傾向が強くなりました。
日本の共産化を恐れたGHQは昭和二十五年(1950)、日本共産党の非合法化を示唆します。その後、官公庁、大企業、教育機関などから、共産主義者およびそのシンパの追放を勧告いました(レッドパージ)。これにより一万数千人以上の人が様々な職場から追放されましたが、それらはかつての公職追放や教職追放のような徹底したものではありませんでした。
大学では共産主義者およびそのシンパの追放はほとんど行なわれませんでした。メディアも同様でした。また国鉄(日本国有鉄道。その後、JR各社に分れる)の巨大労働組合で長年にわたり国民の血税を貪り続けた国労(国鉄労働組合)などでは、共産主義者らが、共産主義に反対する人々を、逆に共産主義者だと指名して解雇し、実権を握りました。こうして共産主義的な思想は日本社会のいたるところに深く根を下していくことになります。
2026/02/10
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