~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
教職追放
GHQの行なった思想弾圧で、後の日本に大きな影響を与えたのは「教職追放」でした。
GHQは占領直後から、帝国大学で指導的立場にあった教授(多くは愛国者や保守的な思想の持主)、あるいはGHQの政策に批判的な教授を次々に追放しました。
「WGIP」を日本人に完全に植え付けるためには、教育界を押さえる必要があると考えたからです。
代わってGHQが指名した人物を帝国大学に入れましたが、その多くは戦前に共産党であったり、無政府主義的な論文を書いたりして大学から処分された人たちでした。戦前、「 森戸 もりと 事件」(東京大学教授の森戸 辰男 たつお が無政府主義の宣伝をした事件)に関係して東京大学を辞めさせられた 大内兵衛 おおうちひょうえ (戦後、東京大学に復帰、後、法政於大學総長)、戦前、無政府主義的な講演をして京都大学を辞めさせられた( 滝川 たきがわ 事件)滝川 幸辰 ゆきとき (戦後、京都大学学長)など、多くの者がGHQの後ろ盾を得て、結果的に「WGIP」の推進者となり、東大、京大を含む有名大学を支配していくことになります。
一方、追放を免れた者も、これ以降は、GHQの政策には批判的なことを口にしなくなったばかりか、帝国大学においては、共産主義に阿る教授や社会主義に転向する者、変節する学者が続出しました。
特にひどかったのは東京帝国大学で、昭和二十一年(1946)、憲法学者の 宮沢俊義 みやざわとしよし は「八月革命」を唱えて、日本国憲法の正当性を論じました。「八月革命」とは、簡単に言えば、「ポツダム宣言の受託によって、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したもので、日本国憲法はGHQによって押し付けられたものではなく、日本国民が制定した憲法である」という説です。現在でも、この説は東大の憲法学者の教授らにょって引き継がれ、その教え子たちによって全国の大学の法学部に広く行き渡り、司法試験などの受験界では「宮沢説」が通説となっています。
また国際法学者として東京大学に君臨した 横田喜三郎 よこたきさぶろう は、東京裁判の正当性を肯定しています。もちろん彼の説も、その後、弟子たちによって東京大学および全国の大学に脈々と継承されています。余談ですが、横田はGHQによる占領中に「天皇を否定する」内容の本(『天皇制』)を書いて出版しました。しかし後年、最高裁長官に任命せられ、勲一等旭日大授賞が貰えそうになった時、門下生に命じて神田の古書店で自著を買い集めさせ、証拠隠滅のために個人焚書したのです。何とも恥知らずな話ですが、見方を変えれば、己の信念や研究成果をもって書いた学説ではなかったという証拠です。
憲法学者の宮沢俊義も、最初は、「日本国憲法の制定は日本国民が自発的自主的に行なったものではない」と主張していましたが、ある日突然、正反対の意見を言い出した学者です。その変わり身の早さから、おそらくGHQの教職追放を目の当たりにして、慌てて転向したものと思われます(宮沢は戦前にも軍部に向かって主張を変えた過去がある)。悲しいのは、その後、日本の憲法学会をリードする東京大学の法学部の教授たちが、その宮沢の学説を半世紀以上にわたって継承そ続けているということです。
そして東京大学法学部からは、戦後も数多くの官僚が排出しています。「自虐史観」に染まった教授たち(一部は保身のためにGHQに阿った)から「日本国憲法は日本人が自主的に作った」「東京裁判は正しい」という教育を受けた人たちが、文部科学省や外務省の官僚たちになるということの方がむしろ、恐ろしいことです。
「教職追放」は大学だけでなく、高校、中学、小学校でも行なわれました。最終的に自主的な退職も含めて約十二万もの教職員が教育現場から去ったと言われています。その多くが愛国心を隠さなかったり、保守的な考えを持っていたりした者で、特に戦前の師範学校出身者が多かったとも言われています。
その結果、教育界は社会主義者が支配するようになり、昭和二十二年(1947)に生まれた日本教職員組合(日教組)は、完全に左翼系運動組織となりました。後に日教組の書記長となり、三十年にわてってトップの座にあった槙枝元文まきえだもとふみは、当時、国交がなかった北朝鮮を何度も訪問し、金日成キムイルソンから勲章まで授けられています。
そうして戦後の日本の教育界は左翼系の人々に乗っ取られた形となったのです。」
公職追放
GHQが次に行なったのが「公職追放」(公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令)です。GHQにとって好ましからざる人物と判断した人たちを様々な職場から追放したのです。対象者は、「戦犯」や「職業軍人」など七項目に該当する人物でしたが、GHQが気に入らない人物は、それだけで追放処分となりました。
昭和二十一年(1946)、自由党総裁だった鳩山一郎は、首班(首相)指名を受ける直前に公職追放により政界から追放されました。表向きの理由は昭和五年(1930)の「統帥権干犯問題」での鳩山の発言でしたが(軍部の横暴を助長することになったとされた)、本当の理由は別にあったといわれています。鳩山は昭和二十年(1945)、アメリカの原爆投下に批判的ともとれるインタビュー記事が朝日新聞に載ったことで、GHQから睨まれていたのです。ちなみにこの時、朝日新聞は二日間の発行停止処分を受け、それ以降、同紙はアメリカやGHQを批判する記事を一切書かなくなりました。
戦後初の総選挙で第一党となった政党の総裁でさえ簡単に追放してしまうGHQの恐ろしさに、以降、GHQの政策に異議を唱える政治家はほとんどなくなってしまいました。また名称こそ「公職追放」といましたが、実際は公職だけでなく民間企業からも追放されました。当時、日本は貧しく、ほとんどの人が食うや食わずの生活で、社会保障の制度もありません。職を失うことは、まさしく死活問題でした。政治家といえども、その恐怖に怯えたのも無理ではありません。
GHQは新聞社や出版社からも多くの人物を追放しました。それは言論人や文化人にも及びました。
菊池寛 きくちかん (作家、「文芸春秋」創刊者) 正力松太郎 しょうりきまつたろう (読売新聞社社長) 円谷英二 つぶらやえいじ (映画監督) 山岡荘八 やまおかそうはち (作家)などの著名人の他、無名の記者や編集者も多くいました。代わりにGHQの指名によって入ってきたのは、彼らの覚えめでたき人物たちでした。これにより、多くの大学、新聞社、出版社に、「自虐史観」が浸透し、GHQの占領が終った後も、そうした思想が徐々に一般国民に行き渡っていくことになります。
大学や新聞社で追放を免れた人たちの中にも、追放を恐れてGHQの政策に対して批判的なことを口にする者はいなくなりました。
GHQの公職追放はその後も財界、教育界、言論界と広い範囲で行なわれ、その数は二十万六千人にも及びましたが、追放を担当したG-2(参謀第二部)だけで、それだけの人数を処理できるはずはありません。追放に協力した日本人が多数いたことは間違いなく、彼らの多くは共産党員ならびにそのシンパであったといわれています。
前述の教職追放の時も、同じ日本人同士の密告や讒訴が頻繁にあり、そうした空気を嫌って多くの教員が自主的に職場を去っています。また政治家の間でも、GHQを使って政敵を追い落としたケースがありました。ちなみに前述の焚書にも、左翼系学者や言論人の協力があったことはいうまでもありません。
こうした事実を見ると、「教職追放」や「公職追放」は、単に思想的な問題だけではなく、日本人の誇りとモラルを破壊したものだったということがわかります。
2026/02/07
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