戦後、昭和天皇の戦争責任について様々な意見が出されてきました。もちろん法的には責任は発生しませんが、この問題を語る前に、昭和天皇の政治に対するモットーについて述べたいと思います。
大日本帝国憲法の基本原則は、統治権は天皇が総攬するが、実際の政治は政府が行なうといおうものでした。よって昭和天皇は、「君臨すれども親裁せず」という政治姿勢を貫いていました。つまり昭和天皇は立憲君主であって、専制君主ではなかったのです。
前章で述べたように、昭和天皇は御前会議の場でも基本的に閣僚たちの意見を聞いているだけで、自ら意見を口にすることはありませんでした。そして内閣の決めたことに異議を挟むこともしませんでした。戦争中も、軍部が天皇大権である「統帥権」を盾に、すべては天皇陛下の命令であるという体で国民を動かして戦争に突き進んだというのが実態でした。
昭和天皇がその生涯において、政治的な決断(親裁)を下したのは、二・二六事件と終戦の時だけでした。厳密に言えば、前述したように昭和三年(1928)の「張作霖爆殺事件」に対して不快感をあらわにしたケースがありましたが、そのことで内閣が総辞職した結果を見て、昭和天皇は内閣の決定には拒否権を発動しない旨を自らに課していました。(その後の昭和十一年【1936】の「二・二六事件」は軍の統帥権者としての反乱軍の鎮圧を命じたもの)。
昭和二十年(1945)九月二十七日、昭和天皇がアメリカ大使館でマッカーサーと初めて会談した時、マッカーサーは昭和天皇が命乞いをしに来たと思っていました。ところが、そうではありませんでした。昭和天皇はマッカーサーにこう言ったのです。
「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」(『マッカーサー大戦回顧録』より)
この時、同行していた通訳がまとめた昭和天皇の発言のメモに、後日、藤田尚徳ふじたひさのり侍従長が目を通し、回想録に次のように記しています。
「陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任はない。
私の一身は、どうなろうと構わない。私は」あなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』」(『侍従長の回想』)
マッカーサーは昭和天皇のこの言葉に深い感銘を受けます。
「死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事情に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」(『マッカーサー大戦回顧録』より)
この時の会談の際、車で訪問した昭和天皇をマッカーサーは出迎えませんでした。天皇は戦犯候補に挙げられていたので、これは当然でした。しかし帰る時にはマッカーサーは玄関まで見送りに出ています。おそらく会談中に昭和天皇の人柄に感服したためだと思われます。
「君臨すれども親裁せず」という存在でありながら、同時に日本の「統治権の総攬者」であった昭和天皇の戦争責任というテーマは、イデオロギーや政治的な立ち位置によって見方が変わり、また永久に結論が出ない問題であります。
「ご聖断」が遅すぎたという声もあります。しかし、仮に半年前に天皇が終戦を決断したとしても、連合国、特にアメリカ政府がそれに同意する保証はなく、日本の陸軍がそれを呑むこともなかったと思われます。八月十四日の時点でさえ、陸軍の中には、更なる犠牲を出しても本土決戦をすべきと主張する者が何人もいたのです。
余談ですが、戦争中、天皇は一度も皇居から離れませんでした。東京は何度もアメリカ軍の大空襲を受けており、周囲の者は疎開を勧めましたが、天皇は「目の前で君臣が次々と死んでいくのに、なぜ朕だけが疎開などできようか」と言い、頑として拒否しました。昭和天皇は死を覚悟していたのです。
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