連合国軍は占領と同時に日本に対して様々な報復措置を行ないましたが、その最初が「極東国際軍事裁判(東京裁判)でした。
これは裁判という名前こそ付されていましたが、「罪刑法定主義」という近代刑法の大原則に反する論外なものでした。わかりやすくいえば、東京裁判では、過去の日本の行為を、後から新たに国際法らしきものをでっちあげて裁いたのです(「事後法」による判決)。これは「法律不溯及の原則」に反する行為で、近代国家では認められていません。正確にいうと、東京裁判の根拠となったものは、極東国際軍事裁判所条例といって連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが出した「一般命令第一号」という行政命令にすぎず、実は「事後法」以前の問題だったのです。
連合軍は、戦争犯罪人(戦犯)をA、B、Cという三つのジャンル(等級ではない)に分けて裁きました。B、C項目の罪状は主に捕虜の殺害や虐待に関するもので、約千人の元軍人や軍属が死刑になりました。その中には実際には無罪であるにもかかわらず誤審によって死刑となった者も少なくありませんでした。
Aの罪状は「平和に対する罪」というもので、二十八人が昭和二十一年(1946)四月二十九日に起訴されました。 昭和天皇の誕生日であるこの日を選んだことが、連合軍の嫌がらせなのは明らかでした。このうち、一人は精神障碍で訴追免除、二人は判決前に病死し、実際に判決を受けたのは二十五人でした。うち七人が死刑判決を受けましたが(全員がBCの項目での戦犯でもあった)、いずれも事後法による判決です。
ただし、この裁判の判事の中で国際法の専門家であったインドのラダ・ビノード・パール判事は、戦勝国によって作られた事後法で裁くことは国際法に反するという理由などで、被告人全員の無罪を主張しています。
死刑判決を受けた七人の「A級戦犯」は昭和二十三年(1948)十二月二十三日、絞首刑で処刑されました。この日は皇太子(現在の上皇)の誕生日でしたが、この日を処刑の日に選んだところにも、連合国軍の根深く陰湿な悪意がうかがえます。
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