~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
極東国際軍事裁判
連合国軍は占領と同時に日本に対して様々な報復措置を行ないましたが、その最初が「極東国際軍事裁判(東京裁判)でした。
これは裁判という名前こそ付されていましたが、「罪刑法定主義」という近代刑法の大原則に反する論外なものでした。わかりやすくいえば、東京裁判では、過去の日本の行為を、後から新たに国際法らしきものをでっちあげて裁いたのです(「事後法」による判決)。これは「法律不溯及の原則」に反する行為で、近代国家では認められていません。正確にいうと、東京裁判の根拠となったものは、極東国際軍事裁判所条例といって連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが出した「一般命令第一号」という行政命令にすぎず、実は「事後法」以前の問題だったのです。
連合軍は、戦争犯罪人(戦犯)をA、B、Cという三つのジャンル(等級ではない)に分けて裁きました。B、C項目の罪状は主に捕虜の殺害や虐待に関するもので、約千人の元軍人や軍属が死刑になりました。その中には実際には無罪であるにもかかわらず誤審によって死刑となった者も少なくありませんでした。
Aの罪状は「平和に対する罪」というもので、二十八人が昭和二十一年(1946)四月二十九日に起訴されました。 昭和天皇の誕生日であるこの日を選んだことが、連合軍の嫌がらせなのは明らかでした。このうち、一人は精神障碍で訴追免除、二人は判決前に病死し、実際に判決を受けたのは二十五人でした。うち七人が死刑判決を受けましたが(全員がBCの項目での戦犯でもあった)、いずれも事後法による判決です。
ただし、この裁判の判事の中で国際法の専門家であったインドのラダ・ビノード・パール判事は、戦勝国によって作られた事後法で裁くことは国際法に反するという理由などで、被告人全員の無罪を主張しています。
死刑判決を受けた七人の「A級戦犯」は昭和二十三年(1948)十二月二十三日、絞首刑で処刑されました。この日は皇太子(現在の上皇)の誕生日でしたが、この日を処刑の日に選んだところにも、連合国軍の根深く陰湿な悪意がうかがえます。
コラム-19
日本兵は国外でも、悲惨な目に遭いました。
東南アジアでは、約一万人の日本軍兵士が戦犯容疑で連合国軍(アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍、オランダ軍)に逮捕され、連日、筆舌に尽くしがたい(本当に文字にするのが憚られるほどの)激しい拷問と虐待を受け、多くの者が亡くなったり自決したりしました。彼らは戦後に処刑された戦犯リストにも入っていません。
満洲では、ソ連軍が武装解除した日本軍兵士を五十七万五千人も捕虜として、厳寒のシベリアで何年にもわたって、満足な食事も休養も与えられずに奴隷的労働をさせました。その結果、約五万五千人の兵士が命を落としています。
近代になって、戦勝国が敗戦国の兵士にこれほど残虐な仕打ちをした例はありません。そこには白人種の黄色人種への差別意識に加えて、緒戦において日本軍に完膚なきまでに打ち破れれたことへの報復という意味合いもありました。
悲惨な目に遭ったのは兵士だけではありません。満洲や朝鮮半島にいた日本の民間人は、現地人に財産を奪われただけでなく、虐殺、暴行、強制連行などに遭い、祖国の地を踏めない者も少なくありませんでした。最も残酷な目に遭ったのは女性たちで、現地人やソ連兵らによる度重なる強姦を受け、そのために自殺した女性も数多くいました。
戦後、朝鮮半島を経由して帰国した女性の多くが強姦によって妊娠あるいは性病感染させられたいました。そのため日本政府は、昭和二十一年(1946)三月に福岡県筑紫ちくし郡二日市町(現在の筑紫野市)に二日市保養所を」設置し、引き揚げ女性の堕胎手術や性病治療を行ないました。二日市保養所は翌年秋に閉鎖されましたが、その間に、五百人以上の女性が堕胎手術を受けたと言われてい�ます(公に出来ない手術のため、詳細な記録は残されていない)。なお聞き取り調査によると、女性らを強姦して妊娠させた加害者で圧倒的に多かったのは朝鮮人でした。
今日、二日市保養所の話は歴史の間に葬り去られていますが、忘れてはならない史実です。これもまた戦争のもう一つの顔と言えるでしょう。残された記録や関係者らの証言、文章は、時空を超えて読む者の胸をえぐ ります。
2026/02/01
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