マッカーサーは昭和二十八年(1953)の談話の中で次のように語っています。
「占領軍が撤退し、日本人の思い通りになる状況が生まれたとたんに、彼らは押し付けられた諸観念から独立し、自己を主張したいという目的」だけのためにも無理強いされた 憲法を捨て去ろうとするだろう。これほど確かなことはない」(ジョージ・H・ブレイクスリー『極東委員会─国際協力の研究』より)
つまりマッカーサーは日本人に「憲法九条は押し付けられたものではない」というイメージを植え付けておくことが大事だったのです。
ただ、幣原がマッカーサーに九条のアイディアを語った可能性はあります。昭和二十六年(1951)に、幣原の元秘書官で当時衆議院議員だった GHQ
平野三郎
の質問に答えて語っている中に、戦争放棄に関する狂信的ともいえる考えが吐露されているからです。
その一部を紹介しましょう。
「非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。(中略)要するに出会は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から脱け出すことは出来ないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果すのだ」(『平野文書』より)
幣原の言葉は、憲法九条が絶対的正義であるとする現代の護憲派の人たちの考え方と酷似しています。このとき、平野が「軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めて来たら、どうするという訳なのですか」と訊いていますが、幣原の答えは「死中に活」というものでした。意味がわからない平野が重ねて問うと、幣原はこう答えています。
「戦争をやめるには武器をもたないことが一番の保証になる」
ここにはすでに論理はありません。敢えて言うならば、宗教的な妄想に近い考えになっています。侵略国家に対して、自衛の力を持たない国家や民族がどのような悲惨な運命を辿って来たかは、世界史を
繙
ひもと
けば一目瞭然です。
そもそも重原喜重郎という人物は、かつてワシントン会議においてアメリカの策略に乗って日英同盟を破棄して名ばかりの「四ヶ国条約」を締結した張本人であり、満洲や中国で日本人居留民が中国人からたびたび嫌がらせを受けても、「自重するように」と言い続けた外相(当時)です。おそらく若い頃から、戦争を忌避すれば平和が訪れるという思想の持主だったのかも知れません。それで前述したようにマッカーサーとの会談で、そうした話をした可能性はあります。しかし繰り返しますが、日本の戦争放棄はアメリカの規定路線でした。
新憲法は、手続き上は大日本帝国憲法を改正する形式を取り、衆議院と貴族院で修正可決された後、日本国憲法として昭和二十一年(1946)十一月三日に公布され、翌年五月三日に施行されました。
ここで、読者に絶対に知っておいていただきたいことがあります。
アメリカを含む世界四十四ヶ国が調印している「ハーグ陸戦条約」には「占領国は占領地の現行法を尊重する」と書かれています。つまり、GHQが日本の憲法草案を作ったというこの行為自体が、明確に国際条約違反なのです。
ちなみに西ドイツも日本と同じように連合国によって強引に憲法を押し付けられています。しかしそこには決定的ともいえる違いがあります。ドイツへ押し付けた憲法には「交戦権」を奪っていないことです。第二次境大戦中も、アメリカは日系移民(国籍はアメリカ市民)の私有財産を奪った上、強制収容所に送りましたが、ドイツ系やイタリア系の移民に対してはそんなことは一切行なっていません。
この時、日系移民の若者(男子)たちは、アメリカに対する忠誠を誓うため、軍に志願してヨーロッパ戦線で戦いました。日系アメリカ人二世が主力の「442連隊戦闘団」は連合国軍の中で最も勇敢な部隊として知られ、アメリカ合衆国史上最も多くの勲章を受けました。しかしその死傷率は300パーセントを超えるものでした(連隊の定員の三倍以上の死傷者を生んだ)。その凄まじい数字を見ただけで、彼らの戦いぶりがどれほどの勇猛果敢あったかがわかります。彼らの多くはアメリカで生まれ育ちましたが、日本の侍の心を持った男たちでした。そして彼らはその合言葉「Go for brok!(当たって砕けろ!)とともに、文字通りその命を懸けて、アメリカに日本人の素晴らしさを示したのです。
後にトルーマン大統領が「諸君は敵のみならず、偏見とも戦って、勝利した」という言葉を贈りましたが、もって冥すべしと思います。
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