~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-17
「ポッタム宣言受託」は、昭和二十年(1945)八月九日の御前会議で決定されました。
場所は宮中御文庫付属庫の地下10メートルの防空壕内の十五坪ほどの一室でした。時刻は午後十一時五十分。列席者は鈴木貫太郎首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍司令部総長、枢密院議長の七人でした(他に陪席四人)
司会の首相を除く六人は、「ポッタム宣言受託派」(外務大臣・海軍大臣・枢密院議長)と「徹底抗戦派」(陸軍大臣・陸軍参謀総長・海軍軍司令部総長・海軍軍司令部総長)の真っ二つに分れました。
日本政府が「ポッタム宣言」を受託すれば、天皇は戦犯として処刑される可能性もありましたが、会議中、一切発言しませんでした。時に昭和天皇は四十四歳でした。
昭和天皇はその生涯にわたって、「君臨すれども親裁せず」という姿勢を貫いていました。『親裁』とは、君主自らが政治的な裁決を下すことです。したがって国民が選んだ内閣の決定には口を挟まないという原則を自らに課していたのです。それを行なえば専制君主となり、日本は立憲国ではなくなるという考えを持っていたからです。前述したように昭和三年(1928)の「張作霖爆殺」に関する田中義一首相の報告に対して不満を述べたことで内閣が総辞職したことを反省し、以後は「拒否権」も含めて、「親裁」は行ないませんでした。唯一の例外が、軍事クーデターである「二・二六事件」の際に制圧せよと命じたときです。
大東亜戦争の開戦には反対だったにもかかわらず(開戦回避のため、水面下で努力していた)、開戦が決まった御前会議においては、内閣の決定に対して一言も異議を唱えませんでした。
「ポツダム宣言」をめぐっての会議は「徹底抗戦派」と「ポツダム宣言受託派がともに譲らず、完全に膠着状態になりました。
日付が変わって十日の午前二時を過ぎた頃、司会の鈴木貫太郎首相が、「事態は一刻の遷延も許されません。誠に畏れ多いことながら、陛下の思し召しをお伺いして、意見をまとめたいと思います」と言いました。
ずっと沈黙を守っていた昭和天皇は、「それならば、自分の意見を言おう」と、初めて口を開きました。
一同が緊張して見守る中、天皇は言いました。
「自分は外務大臣の意見に賛成である」
日本の敗戦が決まった瞬間でした。
恐ろしいまでの静寂の後、部屋にいた全員がすすり泣き、やがてそれは号泣に変わりました。
薄暗い地下壕で、十一人の男たちが号泣する中、昭和天皇は絞り出すような声で言いました。
「大東亜戦争が始まってから陸海軍のしてきたことを見ると。予定と結果が大いに違う。今も陸軍大臣、陸軍参謀総長と海軍軍司令部総長は本土決戦で勝つ自信があると言っているが、自分は心配している。本土決戦を行なえば、日本民族は滅びてしまうのではないか。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来ようか。自分の任務は祖先から受け継いだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい。その人たちが将来再び立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。そのためなら、自分はどうなっても構わない」
この時の御前会議の様子は、陪席した 迫水久常 さこみずひさつね 内閣書記官長(現在の内閣官房長官)が戦後に詳細を語ったテープが残っています(国立国会図書館所蔵)。この録音を文字起こしした文章を読めば、当夜の異様な緊迫感がこれ以上はないくらいの臨場感をもって迫って来ます。
日本政府はその日の朝、連合軍に「ポツダム宣言受託」を伝えますが、この時、「国体護持」(天皇を中心とした秩序【政体】の護持)を条件に付けました。
連合国からの回答は十三日に来ましたが、その中に「国体護持」を保証する文言がなかったため(天皇の処刑の可能性もあった)、政府は十四日正午に再び御前会議を開きます。この時の列席者は、九日の時の七人に加え、全閣僚を含む計二十三人でした。
この席上で、「(陛下を守れないなら)本土決戦やむなし」という声が上がりますが、昭和天皇は静かに立ち上がって言いました。
「私の意見は変わらない。私自身は如何になろうとも、国民の生命を助けたいと思う」
もはや列席者一同は慟哭するのみでした。
そして昭和天皇は最後にこう言いました。
「これから日本は再建しなくてはならない。それは難しいことであり、時間も長くかかるだろうが、国民が一つの家の者の心持になって努力すれば必ず出来るであろう。自分も国民と共に努力する」(迫水久常内閣書記官長の証言録より)
同日、「ポツダム宣言受託」は閣議決定され、午後十一時、連合国側へ通達されました。こうして大東亜戦争は終結しました。
この歴史的な出来事の経緯と昭和天皇のお言葉が、今日、文科省が選定したおの歴史教科書にも書かれていないのは不可解としか言いようがありません。したがってこのことを知っている日本人はほとんどいないのが実情です。しかし、日本人であるならば、このことは永久に忘れてはならないことだと思います。
2026/01/26
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