大東亜戦争」を研究すると、参謀本部(陸軍の総司令部)も軍令部(海軍の総司令部)も「戦争は国を挙げての総力戦である」ということをまったく理解していなかったのではないかと思えます。国民に鍋や釜まで供出させながら、一方で夥しい無駄を放置しているからです。たとえば前述の輸送船問題にどう対応したかといえば、ぢうせすぐに沈められるのだからと適当な設計で「戦時標準船」という名前の粗製乱造ともいえる船を作り、実際に次々に沈められています。
無駄といえば、零戦の製作にもありました。三菱零式艦上戦闘機は日本海軍の主力戦闘機ですが、その製造の実態を知れば多くの人は耳を疑うでしょう。零戦は名古屋の三菱工場で作られましたが、工場の近くには飛行場がありませんでした。そのため完成した零戦をいったんバラバラにして、牛が引く荷車三台に載せて、約40キロ離れた岐阜の
各務原
飛行場まで一昼夜かけて運び、そこであらためて組み立ててから全国の基地に向けて飛ばしたのです。
なぜ馬でなく牛を使ったのかといえば、「名古屋─各務原」間は道路が舗装されておらず、スピードが出る馬車だとせっかく作った零戦が壊れるからです。
同様の理由でトラックも使えませんでした。当時、飛行機といえば世界最高のテクノロジー兵器えあり、零戦の性能は世界標準の素晴らしいものでした。その兵器を牛で運んでいるのです。普通なら工場の横に飛行場を作るか、その逆か、あるいは道路を広げて舗装するかという話しになるはずですが、それぞれの管轄が別という縦割り行政のせいで、この冗談かと思うほどの非効率的な状況は終戦まで改善されませんでした。さらに、戦争が激化すると、工場の熟練工も招集され戦場へ送られました。代わりに中学生や女学生を勤労学生として工場に送り込みましたが、当然一流の職工代わりになるはずもなく、零戦の不良品が相次ぐこととなります。
アメリカではもとより兵器は大量生産しやすいように設計され、熟練工でなくても作れる工程が組まれていました。日本の同英国ドイツでは軍需大臣のアルベルト・シュペーアが徴兵の権限まで持っていたため、一流の職人や工場労働者は戦場に送りませんでした。したがって戦争末期まで工業生産力が低下しなかったのです。またドイツでは敗戦の前年でも国民一人当たりのカロリー摂取量は戦前と同じレベルを保っていました(同時期の日本はドイツの三分の二しかない)。アメリカもドイツも、戦争は総合力であるということを知っていたのです。ただ、それは第一次世界大戦の厳しい体験を通じて学んだ部分が大きかったといえます。
一方、日本はそれを学ぶ機会がありませんでした。日本にとって直近の大戦争は日露戦争であり、戦争は局地戦争で勝利すれば勝てるという誤った教訓を身に付けてしまったのです。
海軍と陸軍の対立もひどいものでした。一例を挙げると、銃や弾丸の規格と仕様さえも違っていたのです。世界の軍隊でこんな例はありません。
似た話としては、インドネシアの石油施設を多く取ったのは陸軍でしたが、実は陸軍は海軍ほど石油を使いません。それなのに現地で余った石油を海軍には回しませんでした。そのため海軍は常に重油不足で、聯合艦隊の行動に制限がかけられていました。見るに見かねた陸軍の士官が海軍に石油を回したことがありましたが、彼は軍から厳しい叱責を受けています。そもそも石油を確保するために始めた戦争であったにもかかあらず、完全にその目的を見失っていたのです。
別の例を挙げると、軍用機メーカーの中島飛行機は海軍と陸軍の飛行機を作っていましたが、同じ会社の敷地内に別々の建物を作り、お互いに徹底した秘密主義で建物に囲いまで作って互いの設計図や工程を見せないようにしていました。共同で開発していこうなどという気は皆無だったのです。
海軍と陸軍の国益に反する対立は枚挙にいとまがありませんが、こうしたことを見ると、はたして当時の日本陸軍と海軍は、本気で戦争に勝つ気があったのだろうかとさえ思えてきます。
私が最も腹立たしく思うのは、当時の日本軍上層部が失敗の責任を取らなかったことです。将官クラス(大将、中将、少将)はどんなひどい作戦ミス、判断ミスをしても、そのことで責任を取らされることは一切ありませんでした。そのため大戦中に同じ失敗を繰り返していたのです。
信賞必罰ではなく、出世は陸軍士官学校と海軍兵学校(および陸軍大学校と海軍大学校)の卒業年次と成績で決められていました。個々の能力はほとんど考慮されず、いくら能力が高くても、上の人間を追い越すことは出来ませんでした。
士官学校や兵学校の成績というのはほとんどペーパーテストです。つまり答えが決まっている問題を解く能力が問われるにすぎません。これに対し、実際の戦場には答えがありません。前例のない問題が常に繰り出されるような状態、つまりペーパーテストに強いマニュアル人間が最も苦手とする分野といえるでしょう。
この頃の軍人は、戊辰戦争や西南戦争を経験した日清戦争や日露戦争の司令官クラスとはまるで違っていたのです。
敢えていえば、大戦中の日本軍の指揮官クラスは現代の官僚に似ていると思います。いや、現代の官僚が当時の軍人に似ているというべきでしょうか。いずれも答えのある問題には強いですが、前衛のない事態への対応力は格段に落ちます。そして失敗の責任を取らされることはありません ──。
余談ですが、宣戦布告の文書を、不手際でハル国務長官に手渡すのが遅れた日本大使館員のキャリア外交官たちは、何一つ責任を取らされないばかりか、戦後は、GHQによって公職追放された来栖三郎くるすさぶろう以外は、ほとんどが出世しています。これでは、宣戦布告の遅れを国が黙認していたと、アメリカに受け取られても仕方がありません。
ところで、アメリカ海軍の強さはその能力主義と柔軟な人事にありました。チェスター・ニミッツは、その実戦能力を認められ、日米開戦となった時は序列二十八番目の少将から中将を飛ばして大将に昇進し、太平洋艦隊司令長官に就任しています。
一方、失敗の責任は厳しく追及されました。ハズバンド・キンメル海軍大将は日本の真珠湾攻撃で戦艦四隻を失った責任を問われて解任されています。ちなみにキンメルの死後、平成十一年(1999)、キンメルの名誉回復が上院で採択され、翌平成十二年(2000)、下院でも採択されましたが、時の大統領ビル・クリントンも、次の大統領のジョージ・W・ブッシュも署名を拒否しています。 |