昭和十八年(1943)の時点で、日本の国内経済はすでにガタガタになっており、生産力は著しく低下していました。アメリカとの戦争継続の見通しはかなり厳しくなっていましたが、アメリカの本格的な反抗がなかったためか、講和の画策をした形跡がありません。一方、中国大陸に限っては戦いを有利に進めていました。
ただアメリカはその一年間休んでいたわけではありませんでした。ヨーロッパ戦線を戦いながら、日本への反攻準備を着々と整えていたのです。
一番の武器は大型空母でした。真珠湾攻撃を見て空母の有効性を確認したアメリカは、大型空母(エセックス級と呼ばれるもので、第二次世界大戦中の最強の空母)の建造隻数を大幅に増やしたのです。その結果アメリカが終戦までの間に十八隻ものエックス級空母を就役させたのに対し、日本が戦争中に就役させて実戦に投入で来た正規空母は一隻のみでした。ちなみに開戦時、アメリカが保有していた中型以上の空母は七隻、日本は六隻でしたが、アメリカは大西洋にも空母を展開していたので、太平洋側では日本が優勢でした。しかしわずか三年で大逆転しました。
昭和十九年(1944)六月に行なわれたマリアナ沖海戦で、新型空母をずらりと揃えたアメリカの機動部隊の前に、日本の聯合艦隊は完敗を喫します。その戦力差はもはや圧倒的といえるほど開いていました。
この戦いで大本営が掲げていた絶対国防圏が破られ、サイパン島が奪われました。これは日本の運命を握られたともいえる事態でした。というのも、サイパンからは大型爆撃機B-29が直接日本を空襲することが可能だったからです。
この時、国見大臣でもあった岸信介(戦後、首相になる)らは「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全う出来ないから講和すべし」と首相の東条英機に進言しました。東条は「ならば辞職せよ」と言いましたが、岸は断固拒絶しました。東条の腹心だった東京憲兵隊長が岸の私邸を訪れ、軍刀をがちゃつかせて恫喝しても岸は動じませんでした。結果、内閣府一致となり、同年七月、東条内閣はサイパン失陥の責任を取る形で総辞職となります。
現代でもメディアや文化人などが、東条英機をヒトラーやムッソリーニなどの独裁者と同列に並べることがありますが、この一事を見てもそういではないことがわかります。日本は戦争中であっても議院内閣制を堅持していたのです。
後の評論家の多くは、この時に不利な条件でも講和すべきだったと言いますが、すでにこの時点ではアメリカは無条件降伏に近いものしか認めなかったでしょうし、大本営と陸軍がそれを呑んだとは考えられません。つまるところ、行き着くところまで行く運命にあったといえるのです。
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