~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
無意味な戦い
昭和十八年(1943)の時点で、日本の国内経済はすでにガタガタになっており、生産力は著しく低下していました。アメリカとの戦争継続の見通しはかなり厳しくなっていましたが、アメリカの本格的な反抗がなかったためか、講和の画策をした形跡がありません。一方、中国大陸に限っては戦いを有利に進めていました。
ただアメリカはその一年間休んでいたわけではありませんでした。ヨーロッパ戦線を戦いながら、日本への反攻準備を着々と整えていたのです。
一番の武器は大型空母でした。真珠湾攻撃を見て空母の有効性を確認したアメリカは、大型空母(エセックス級と呼ばれるもので、第二次世界大戦中の最強の空母)の建造隻数を大幅に増やしたのです。その結果アメリカが終戦までの間に十八隻ものエックス級空母を就役させたのに対し、日本が戦争中に就役させて実戦に投入で来た正規空母は一隻のみでした。ちなみに開戦時、アメリカが保有していた中型以上の空母は七隻、日本は六隻でしたが、アメリカは大西洋にも空母を展開していたので、太平洋側では日本が優勢でした。しかしわずか三年で大逆転しました。
昭和十九年(1944)六月に行なわれたマリアナ沖海戦で、新型空母をずらりと揃えたアメリカの機動部隊の前に、日本の聯合艦隊は完敗を喫します。その戦力差はもはや圧倒的といえるほど開いていました。
この戦いで大本営が掲げていた絶対国防圏が破られ、サイパン島が奪われました。これは日本の運命を握られたともいえる事態でした。というのも、サイパンからは大型爆撃機B-29が直接日本を空襲することが可能だったからです。
この時、国見大臣でもあった岸信介きしのぶすけ)/rp>(戦後、首相になる)らは「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全う出来ないから講和すべし」と首相の東条英機に進言しました。東条は「ならば辞職せよ」と言いましたが、岸は断固拒絶しました。東条の腹心だった東京憲兵隊長が岸の私邸を訪れ、軍刀をがちゃつかせて恫喝しても岸は動じませんでした。結果、内閣府一致となり、同年七月、東条内閣はサイパン失陥の責任を取る形で総辞職となります。
現代でもメディアや文化人などが、東条英機をヒトラーやムッソリーニなどの独裁者と同列に並べることがありますが、この一事を見てもそういではないことがわかります。日本は戦争中であっても議院内閣制を堅持していたのです。
後の評論家の多くは、この時に不利な条件でも講和すべきだったと言いますが、すでにこの時点ではアメリカは無条件降伏に近いものしか認めなかったでしょうし、大本営と陸軍がそれを呑んだとは考えられません。つまるところ、行き着くところまで行く運命にあったといえるのです。
神風特攻隊
前述のように、日本は中国大陸での戦いでは常に優勢でしたが、昭和十九年(1944)秋の時点で、アメリカを相手にした太平洋での戦いはもはや絶望的でした。聯合艦隊はほとんどの空母を失っており、強大な空母部隊を擁するアメリカ艦隊に対抗できる力などあるはずもなかったのですが、それでも降伏しない限りは戦い続けなくてはなりませんでした。
同年十月、日本はフィリピンでアメリカ軍を迎え撃ちます。追い詰められた日本海軍は、人類史上初めての航空機による自爆攻撃を作戦として行ないました。神風特攻隊です。神風特攻隊は最初はフィリピンでの戦いの限定的作戦でしたが、予想外の戦果を挙げたことから、なし崩し的に通常作戦の中に組み入れられました。
しかし陸海軍の必死の攻撃の甲斐もなく、フィリピンはアメリカに奪われ、日本陸海軍兵士五十一万八千人が戦病死します。フィリピンを奪われたことで、。南方と日本を繋ぐシーレーンは完全に途絶え、ついに石油は一滴も入って来ない状態となりました。
もっともその前から護衛のない日本の油槽船はアメリカの潜水艦の餌食っとなっていて、昭和十九年(1944)には、インドネシアから国内へ送られた原油はわずか七十九万リットルでした(戦前アメリカから輸入していた原油は年間500万リットル)。もはや戦争どころか国民生活さえ維持出来ない状況となっていたのです。
昭和二十年(1945)、アメリカ軍はついに沖縄にやって来ました。日本軍は沖縄を守るために、沖縄本島を中心とした南西諸島に七万以上の兵士を配置しました。
さらに陸軍と海軍合せて約二千機の特攻機が出撃しました。また聯合艦隊で唯一残った戦力といえる戦艦大和も出撃しましたが、のべ四百機近いアメリカ空母艦載機の攻撃により、坊ノ岬沖であえなく沈められました。
戦後の今日、「日本は沖縄を捨石にした」という人がいますが、これは完全に誤りです。日本は、沖縄を守るために最後の力をふり絞って戦ったのです。もし捨石にするつもりだったなら、飛行機も大和もガソリンも重油も本土防防空および本土決戦のために温存したでしょう。
沖縄は不幸なことに地上戦となり、約九万四千人もの民間人が亡くなりました。沖縄出身の兵士は二万八千人以上が亡くなっていますが、沖縄以外の出身の兵士も約六万六千人が亡くなっています。決して沖縄を捨石になどしていなかったのです。
2026/01/21
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