~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-15
「大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった」という人がいますが、この見方はあやまりです。というより、正確な意味での侵略ではありません。
日本は中国以外のアジア諸国とは戦争をしていないからです。日本が戦った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスであり、インドネシアを植民地としていたオランダであり、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としていたイギリスでした。日本は東南アジアを植民地支配していた列強四ヶ国と戦って、彼らを駆逐したのです。
日本が「大東亜戦争」という理想を抱いていたのはたしかです。「大東亜共栄圏」とは、日本を指導者として、欧米諸国をアジアから排斥し、中華民国、満洲、ベトナム、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ビルマ、インドを含む広域の政治的、経済的な共存共栄を図る政策でした。昭和十八年(1943)には東京で、中華民国、満州国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて「大東亜会議」を開催しています。また同年八月一日にビルマを、十月十四日にフィリピンの独立を承認しています(ただし、アメリカとイギリスは認めなかった)
残念ながら日本の敗戦により、「大東亜共栄圏」が実現されることはありませんでしたが、戦後、アメリカやイギリスなど旧宗主国は再びアジアの国々を支配することは出来ず、アジア諸国の多くが独立を果しました。この世界史上における画期的な事実を踏まえることなく、短絡的に「日本はアジアを侵略した」というのは典型的な自虐史観による見方です。
ミッドウェー海戦と言霊主義
昭和十七年(1942)六月、聯合艦隊はミッドウェー開戦で、主力空母四隻を失うという致命的な大敗を喫しました。この戦いは運に見放された面もありましたが、日本海軍の驕りと油断が多分にあったことも確かです。
たとえば開戦前のシミュレーションの際、日本の空母に爆弾が命中して攻撃能力を失う事態に陥った時、参謀の一人が空母の被害を低めに修正させて図上演習を続けています。また作戦前に「もし空母がやって来たら」と問われた航空参謀は、「鎧袖一触がいしゅういっしょくです」とこともなげに答えたという話もあります。「鎧袖一触」とは「刀を抜くまでもなく、よろいそでを当てただけで相手を倒してしまう」という意味の言葉です。
ここには具体的な対策案はありません。単なる思い込みです。その発言が事実であったかどうかは不明ですが、ミッドウェー海戦全体を改めて眺めると、そこには上層部の油断や傲慢が随所に見られます。
そして私はここに「言霊ことだま主義」の悪しき面を見ます。つまり「悪い結果は口にしないし、想定もしない」で、「いいとこだけを言う」という日本人に特有の精神です。
この後も、日本軍は「言霊主義」に囚われ、太平洋の各戦場でひとりよがりの作戦を立てて敗北を重ねて行きます。
もう一つ日本軍の大きな欠点は情報を軽視したことです。その典型が昭和十七年(1942)八月に始まったガダルカナル島攻防戦でした。
この島をアメリカ軍に奪われたと聞いた大本営はただちに奪回を試みますが、アメリカ軍の兵力を二千人くらいと根拠もなく見積り、それなら九百人ほどで勝てるだろうと一木いつき隊を送り込みました。敵の半分の兵力で勝てると考えるのも大いに問題ですが、実際にはアメリカ軍は一万三千人もいたのです。また日本軍が持っていない重砲などを装備していました。
アメリカ軍陣地に突撃した八百人の兵士のうち七百七十七人が一夜にして死亡しました。その報を受けた大本営は、それではと今度は五千人を送り込みます。しかしアメリカ軍はさらに一万八千人まで増強していました。
結局、ガダルカナル島をめぐる攻防戦は半年近くにわたって行なわれ、日本軍は夥しい人的被害を出し大量の航空機と艦艇を失って敗退します。しかもガダルカナル島で亡くなった陸軍兵の多くは餓死でした。この戦いでは、日本の誇る世界最強の戦艦である大和と武蔵は一度も出撃していません。兵力を温存したかったという理由もありますが、石油の不足のために動かせなかった(大和大型戦艦は大量に重油を消費する)という面もありました。輸送船を護衛しなかったツケが開戦後一年も立たないうちに回って来たのです。
2026/01/19
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