~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
戦争目的を失った日本
開戦四日後の昭和十六年(1941)十二月十二日、日本はこの戦争を「大東亜戦争」と名付けると閣議決定しました。したがって、この戦争の正式名称は「大東亜戦争」です。現代、一般に使われている「太平洋戦争」という名称は、実は戦後に占領軍が強制したものなのです。
「大東亜戦争」は前述したように緒戦は日本軍の連戦連勝でした。開戦と同時にアメリカの真珠湾とフィリピンのクラーク基地を叩き、三日目ににはイギリスの東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという二隻の戦艦を航空攻撃で沈めました。さらに難攻不落と言われたイギリスのシンガポール要塞を陥落させました。
そしてこの戦争の主目的であったオランダ領のインドネシアの石油施設を奪うことに成功します。日本軍がレバノンの油田を占領したと聞いた東条英機首相は、「これで石油問題は解決した」と言いましたが、彼も政府(そして軍)も、油田を占領することと石油を手に入れることは同じでないということに気付いていませんでした。
結論を言えば、日本はせっかく奪った油田から、多くの石油を国内に輸送することが出来なかったのです。
開戦前、日本政府はインドネシアの石油やボーキサイド(アルミニウムの原料)を日本に送り届けるための輸送船を民間から重用することを決めていました。しかし軍が必要とするだけの数を徴用すると、国内の流通に支障をきたすため、軍は「半年だけ」という条件で無理矢理に民間船を徴用したのです。
ところが、インドネシアからの石油などの物資を運ぶ輸送船や油槽船がアメリカの潜水艦によって次々と沈められる事態となります。それでも海軍は、輸送船の護衛など一顧だにせず、聯合艦隊の誇る優秀な駆逐艦が護衛に付くことは一切ありませんでした。「聯合艦隊はアメリカの太平洋艦隊を撃破するためのもので、鈍足の輸送船を護衛するためのものではない」というのが上層部の考えったからです。
海軍は、かつて日本海開戦でバルチック艦隊を壊滅させて日露戦争に勝利したように、大東亜戦争もアメリカの太平洋艦隊を壊滅させれば終結すると考えていました。
そのため艦隊決戦こそが何よりも優先されるという思い込みを持っており、輸送船の護衛などは考えもしなかったのです。海軍では船舶の護衛任務を「くされ士官の捨て所」と呼んで軽侮していましたし、陸軍にも「輜重輸卒しちようゆそつ(物資の輸送をする兵)が兵隊ならば喋々トンボも鳥のうち」と輜重兵を馬鹿にしたざれ歌がありました。戦争が、輸送や、生産も含めた総力戦であるという理解が欠如していたのです。
身を守る手段のない輸送船は大量に撃沈されました。それで「半年だけ」という約束は反故にされ、軍はさらに民間船を徴用することになります。そのため戦場では勝利を収めながらも、国内経済は行き詰まっていくという矛盾した状況に陥りました。
石油を含む物資の不足が、工業生産力の低下を招き、戦争継続が困難な状況になったのもかかわらず、軍はそのあたりをまったく把握・理解出来ていまいませんでした。
驚くべきダータがあります。公益財団法人「日本殉職船員顕彰会」の調べによれば、大東亜戦争で失われた徴用船は、商船三千五百七十五隻、機帆船二千七十隻、漁船千五百九十五隻、戦没した船員と漁民は六万人以上にのぼります。その損耗率は何と約43パーセントです。これは陸軍兵士の損耗率約20パーセント、海軍兵士の損耗率約16パーセントをはるかに超えています。
彼ら民間の船員たちは、海外から石油を含む貴重な物資を命懸けで運んだにもかかわらず、石油は軍に優先的に回され、国民には満足に行き渡りませんでした。それでも軍需物資の不足に悩む政府は、昭和十七年(1942)五月に、金属類回収令を発動し、寺の梵鐘、橋の欄干、銅像、さらに一般家庭にある余った鍋釜や鉄瓶、火箸に至るまで強制的に供出させたのです。これにより国民生活は一層逼迫しました。この時点で、戦争継続は不可能な状況といえました。
2026/01/19
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