~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
開戦前夜
日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策しました。アメリカと戦って勝てないことは政府も軍もわかっていたからです。
しかし日本の新聞各社は政府の弱腰を激しく非難しました。満洲事変以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の」勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わすことが常となっていました。なかには荒唐無稽な創作記事も数多くありました。
東京日日新聞(現在の毎日新聞)の「百人斬り」の記事などはその典型です。これは支那事変で陸軍の二人の少尉が、「どちらが先に敵を百人斬るかという競争をした」という事実誤認に満ちた根拠薄弱な内容でした。しかし戦後、この記事が原因で、二人の少尉は南京軍事法廷で死刑判決を受け、銃殺刑に処せられています。(毎日新聞は現在も記事の内容は真実であったと主張している)。ちなみに「日独伊三国同盟」を積極的に推したのも新聞でした。」
そんな中、承和十六年(1941)十一月二十七日、アメリカのルーズベルト政権はそれまでの交渉を無視するかのように、日本に対して強硬な文書を突き付けて来ました。この文書は当時の国務長官コーデン・ハルの名前をとって「ハル・ノート」と呼ばれていますが、最も重要な部分は、「日本が仏印と中国から前面撤退する」という項目でした。これは日本としては絶対に呑めない条件でした。この時点で、日米開戦は不可避になったといえます。
実はこのハル・ノートを見た日本軍首脳部の開戦は「天祐」と言ったとされています。つまり「戦争をするしかない」状況になったからです。それまで戦争を回避したいと考えていた閣僚らも開戦に強く反対しなくなり、アメリカとの戦争には消極的な立場を取っていた海軍もここで開戦の決意を固めたといわれています。
とはいっても、ハル・ノート受領の前日には、択捉島の 単冠 ひとかっぷ 湾から聯合艦隊の空母部隊がハワイに向けて出撃しています(攻撃決定は十二月二日)。艦隊が単冠湾に終結したのが十一月二十二日、真珠湾攻撃のための猛練習を始めたのが同年五月であったことを見れば、日本政府が戦争回避を試みる一方、軍は戦争開始の準備を着々と進めていたことがわかります。
ただし、ハル・ノートの解釈については後年議論の的になっている点があります。
「日本が中国から撤退」という要求の文章の「中国」についてです。原文は「China」と」なっていますが、この「China」が中華民国を指すのか、それとも満州まで含めた地域を指すのかが明確にされていなかったのです。日本側は「満洲」を含めた地域と解釈しましたが、実はアメリカ側は、満洲は考慮に入れていなかったともいわれています。
戦後、この経緯を調べたピューリッツアー賞受賞作家のジョン・トーランドは、当時の日本の閣僚らに、もし満洲を含まないと知っていたら開戦していたかと訊ねています。すると多くの人は、「それならハル・ノートを受託した」「開戦を急がなかったであろう」と答えています。もっとも、何としても日本を引きずり込みたいと考えていたルーズベルトは、別の手段で日本を追い込んだに違いありません。
とまれさいは投げられました。
2026/01/16
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