~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-14
ドイツのユダヤ人迫害「政策は、日本にも影響を与えました。
戦争が始まる前から、東ヨーロッパのユダヤ人の一部はドイツの迫害から逃れるためにシベリア鉄道を使って上海のアメリカ租界を目指しました。しかし、ルートの途中にある満州国の外交部が旅券を出さないため、国境近くのオトボール駅(現在のロシア、ザバイカリスク駅)で足止めされました。
それを知った関東軍の樋口季一郎ひぐちきいちろう少将(当時)はユダヤ人に食料・衣服・医療品などを支給した上で、上海租界へ移動出来るように便宜を図りました。この「ヒグチルート」と呼ばれるウートを通って命を救われたユダヤ人は、明らかになったいるだけで四千三百七十人以上(一説には二万人)とされています。
このことを知ったドイツは、日本に対して強く抗議しました。前々年に「日独防共協定」を結び、ドイツと良好な関係を保ちたいと考えていた関東軍内部でも樋口の処分を求める声が高まりました。しかし時の関東軍参謀長、東条英機とうじょうひできは樋口の行動を不問とし、ドイツに対して「人道上の当然の配慮である」として、その抗議をはねのけました。
なお樋口は昭和二十年(1945)、北方防衛の第五方面軍司令官として、ポッタム宣言受託後に、樺太や千島列島に軍事侵攻して来たソ連軍と戦っています。
この時、麾下の九十一師団が占守しむしゆ島の戦いでソ連軍に痛撃を与え、彼らを足止めにしたことによって、北海道侵攻を食い止めたといわれています。戦後、ソ連は樋口を戦犯として起訴しようとしますが、それを知った世界ユダヤ人会議をはじめとするユダヤ人たちが様々なネットワークを使って樋口の助命嘆願を行ない、戦犯リストから外させました。
樋口と陸軍士官学校の同期であった安江仙弘やすえのりひろ陸軍大佐もユダヤ人救出に尽力した軍人でした(戦後、ソ連軍に逮捕されシベリアの収容所で病死)
また、昭和十五年(1940)、リトアニアの日本領事館に勤めていた杉原千畝すぎはらちうねは、ユダヤ人難民に日本へ入国するためのビザを発行して、約六千人のユダヤ人を救いました。この時、杉原が日本政府(外務省)の命令に反しtてビザを発行したと書かれている本もありますが、いかにビザがあっても政府が拒否すればユダヤ人は日本に入国できません。つまりユダヤ人亡命は、時の日本政府が黙認していたということです。これらのエピソードから、当時の日本政府にも陸軍にも民族差別の意識がなかったこと、そして人道主義の立場を取っていたことがうかがえます。
樋口が多くのユダヤ人を救ったエピソードは現代のユダヤ人コミュニティでも広く知られており、イスラエルでは、建国に功労のあった人物の名前を刻む「ゴールデンブック」に樋口季一郎の名が刻まれています。
2026/01/14
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