~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
前面戦争へ
「支那事変」は確固たる目的がないままに行なわれた戦争でした。
乱暴な言い方をすれば、中国人の度重なるテロ行為に、お灸をすえてやるよいう世論に押される形で戦闘行為に入ったものの、気付けば全面的な戦いになっていたという計画性も戦略もない愚かなものでした。
名称だけは「事変」となっていましたが、もはや完全な戦争でした。しかもこの戦争は現地の軍の主導で行なわれ、政府がそれを止めることが出来ないでいるという異常なものでありました。そこに五・一五事件や二・二六事件の影響があるのは明らかです。
支那事変が始まった翌年の昭和十三年(1938)には、「国家総動員法」が成立しました。これは「戦時に際して、労働力や物資割り当てなどの統制・運用を議会の信義を経ずに勅命で行なうことが出来るようにした法律」です。具体的には、国家は国民を自由に重用でき、あらゆる物資や価格を統制し、言論を制限し得るといった恐るべき法律でした。ちなみにこの法案の審議中、趣旨説明をした佐藤賢了さとうけんりょう中佐のあまりに長い答弁に、衆議院議員たちから抗議の声が上ったところで、佐藤が「黙れ!」と一喝したことがありました。このとき議員たちの脳裏に二年前の二、二六事件が浮かんだことは容易に想像出来ます。佐藤の恫喝後、誰も異議を挟まなくなり、狂気の法案はわずか一ヶ月で成立しました。
国力のすべてを中国との戦争に注ぎ込もうと考えていた日本はこの年、二年後に東京で開催予定であった「オリンピック」と「万国博覧会」(万博)を返上します。これは、もはや世界の国々と仲良く手を結んでいこうという意思がないことを内外に宣言したに等しい決断でした。
このオリンピックと万博の返上は陸軍の強い希望であったといわれています。
暴れるドイツ
同じ昭和十三年(1938)、ヨーロッパではドイツがオーストリアを併合し、チェコスロバキアのズデーテン地方を要求する事態となっていました。チェコは拒否しますが、ヒトラーは戦争をしてでも奪うと宣言します。イギリスとフランスの首相がヒトラーと会談しましたが(ミュンヘン会談)、英仏両国は、チェコを犠牲にすれば戦争を回避出来ると考え、ヒトラーの要求を全面的に受け入れます。そのためチェコは自国領土の一部をむざむざとドイツに奪われました。
イギリスとフランスが取った「 宥和 ゆうわ 政策」は当時、ヨーロッパの平和を維持するための現実的で勇気ある判断だと大いに評価され、ミュンヘン会談を終えてロンドン郊外のクロインド空港に降り立ったチェンバレン首相を、イギリス国民は大歓迎しました。
しかしこの「宥和政策」は、結果的にドイチを時間的、資金的な猶予を与えただけのものとなりました。結果論ではありますが、この時、イギリスとフランスが軍備を拡充して敢然とヒトラーに対峙していたならば、第二次世界大戦は避けられたかも知れません。仮に戦争になったとしても、全ヨーロッパが火の海となり、夥しい死者が出る悲惨な状況にはならなかったと思われます。狂気の独裁者に対して宥和政策を取るということは、一見、危険を回避したように見えますが、より大きな危険を招くことにもつながるという一種の教訓です。
ドイツはやすやすとズデーテン地方を奪った後、チェコスロバキアの制圧に乗り出します。スロバキアに独立を宣言させ、チェコをも保護下に置きながら、最終的には昭和十四年(1939)三月、軍事侵攻して全土を占領しました。そしてチェコ最大のシュコダ財閥の軍需工場を接収し、兵器を大量に増産すると、ソ連と「独ソ不可侵条約」を結んだ上で、九月一日にポーランドに電撃的に侵攻しました。おぞましいことに、ヒトラーとスターリンは事前にポーランドの分割を話し合っていたのです。
ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリスとフランスは、完全にメンツをつぶされ、二日後、ドイツに宣戦布告しました。ここに第二次世界大戦が幕を開けました。
2026/01/14
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