「支那事変」は確固たる目的がないままに行なわれた戦争でした。
乱暴な言い方をすれば、中国人の度重なるテロ行為に、お灸をすえてやるよいう世論に押される形で戦闘行為に入ったものの、気付けば全面的な戦いになっていたという計画性も戦略もない愚かなものでした。
名称だけは「事変」となっていましたが、もはや完全な戦争でした。しかもこの戦争は現地の軍の主導で行なわれ、政府がそれを止めることが出来ないでいるという異常なものでありました。そこに五・一五事件や二・二六事件の影響があるのは明らかです。
支那事変が始まった翌年の昭和十三年(1938)には、「国家総動員法」が成立しました。これは「戦時に際して、労働力や物資割り当てなどの統制・運用を議会の信義を経ずに勅命で行なうことが出来るようにした法律」です。具体的には、国家は国民を自由に重用でき、あらゆる物資や価格を統制し、言論を制限し得るといった恐るべき法律でした。ちなみにこの法案の審議中、趣旨説明をした佐藤賢了中佐のあまりに長い答弁に、衆議院議員たちから抗議の声が上ったところで、佐藤が「黙れ!」と一喝したことがありました。このとき議員たちの脳裏に二年前の二、二六事件が浮かんだことは容易に想像出来ます。佐藤の恫喝後、誰も異議を挟まなくなり、狂気の法案はわずか一ヶ月で成立しました。
国力のすべてを中国との戦争に注ぎ込もうと考えていた日本はこの年、二年後に東京で開催予定であった「オリンピック」と「万国博覧会」(万博)を返上します。これは、もはや世界の国々と仲良く手を結んでいこうという意思がないことを内外に宣言したに等しい決断でした。
このオリンピックと万博の返上は陸軍の強い希望であったといわれています。
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