~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
ファシズムの嵐
日本の政治の主導権を軍の「統制派」が握ったのと同じ頃、ヨーロッパでも全体主義の嵐が吹き荒れていました。ソ連の共産主義とドイツ、イタリアのファシズムです。
三つの国に共通するのは、国家全体を最優先し、個人の自由や意見は完全否定される点でした。そのためにこの三国では、国家による凄まじい粛清が行なわれました(粛清の規模はソ連が圧倒的に大きい)。またソ連にはスターリン、ドイツにはヒトラー、イタリアにはムッソリーニという独裁者が現れ、国家と国民を完全に支配しました。ちなみにファシズムという言葉は、ムッソリーニの政党ファシスタ党から広まったものです。
ここで注意しなければならないのは、暴力革命で政権を強奪したソ連のボルシェビキは別にしてヒトラーが率いる政党ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)も、ムッソリーニのファシスタ党も、選挙で多数を取っていたということです。両党とも国民の熱狂的な支持を得た集団であり、その意味では国民が選んだ党だったのです。戦後、ドイツ国民はすべてをナチス一派のせいにして、自分たち国民も犠牲者であるとの論理を展開しましたが、これは大いなる欺瞞です。
昭和十年(1935)、ヒトラーはヴェルサイユ条約を事実上破棄し、再軍備と徴兵制の復活を宣言し、これ以降、軍事大国への道を歩み出します。また反ユダヤを鮮明にし、ユダヤ民族の絶滅を計画しました。政策に反対する国民は裁判なしで収容所に送ったり、人知れず処刑したりしました。
ヨーロッパには、ドイツを中心に再び不穏な空気が漂い始めていました。
ドイツと中華民国の蜜月
ドイツはまた、蒋介石の中国国民党による中華民国と手を結んでいました。当時、国際的に孤立していたドイツは、資源の安定供給を求めて中華民国に接近し、武器を売る代わりに希少金属のタングステンを輸入いていたのです。
昭和八年(1933)には、軍事・経済顧問を送り込んで中国軍を近代化させました。ドイツから派遣された元ドイツ参謀総長で軍事顧問のハンス・フォン・ゼークトは、蒋介石に対し、対日戦略をアドバイスしたといわれています。
ドツが日本を敵視していたのは、第一次世界大戦で日本が参戦し、中国の租借地と北マリアナ諸島、パラオ、マーシャル諸島等を奪われていたからです。ただ、ゼークトはソ連のトロツキストともつながりを持っていた人物でした。これだけを見ても、当時の世界が実に混沌としていたことがわかります。
暗躍するコミンテルンと中国
その中国では「国共内戦」と呼ばれる内乱が続いていました。蒋介石が率いる国民党と中国共産党の争いです。中国共産党を作ったのはソ連のコミンテルンでした。
コミンテルンは世界の国々すべてを共産主義国家に変えるという目的のもと、アメリカやヨーロッパに工作員を送り込んでいましたが(日本にも工作員が入り、共産主義者を生み出していた)、革命を起こすほどの組織の構築には至りませんでした。そのため、活動の重要拠点を植民地や、中国大陸に移すという路線変更を行なっていたのです。
大正十年(1921)、コミンテルンの指導によって結成された中国共産党は、最初は蒋介石の率いる国民党と協力していました(第一次国共合作)が、やがて対立するようになり、昭和六年(1931)、江西省瑞金において、「中華ソヴィエット共和国臨時政府」を建てます。
しかし国民党との争いで劣勢に陥った中国共産党は、蒋介石に対して、「共通の敵である日本を倒すために手を結ぼう」と提案しますが、蒋介石は「国内の共産党を潰滅させてから、日本と戦う」という方針を変えませんでした。
蒋介石は張学良に中国共産党の討伐を命じましたが、昭和十一年(1936)、張は蒋介石を裏切って、彼を監禁し(西安事件)、「国民党と共産党が組んで日本と戦う」ことを蒋に約束させます。これを機に第二次国共合作による抗日民族統一戦線が結成されることとなりました。
2026/01/08
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