日本が国際連盟を脱退する前年の昭和七年(1932)に、「五・一五事件」が起きています。
これは昭和恐慌による経済的苦境の中で、ロンドン海軍軍縮条約に不満を持った海軍の急進派青年将校を中心とするテロ事件で、首相官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部、日本銀行、警視庁などを襲撃して、犬養首相を射殺した事件でした。かつて統帥権干犯問題で政府を攻撃した人物が、軍人に暗殺されるとは皮肉な話です。この事件の背景には、世界恐慌による不景気が続き、農村の疲弊や政党政治への不満が民衆の中に充満していたこともありました。
余談ですが、実はこの日、首相官邸ではアメリカの人気喜劇俳優チャールズ・チャップリンの歓迎パーティーが行なわれる予定でした(チャップリンは前日に来日)。
青年将校たちはチャップリンを「頽廃的な文化を持ち込んだ男」として憎んでいて、犬養首相と共に殺害しようとしていましたが、チャップリンは直前になって歓迎パーティーをキャンセルし、危く難を逃れました。これは単なる偶然とは思われず、おそらく何らかの情報がチャップリンの関係者に知らされたと考えられます。ものとき、もしチャップリンが殺害されていたら、大きな国際問題に発展していたことでしょう。
事件の後、大正十三年(1924)から八年間続いていた政党内閣は終わり、軍部の発言力が一層強化されることになり、選挙で選ばれたわけではない軍人や官僚が首相に任命されるようになります。これにより、大正デモクラシーを代表するスローガンであった「憲政の常道」(衆議院第一党の党首が内閣大臣となるなどのルール)は有名無実化していきます。
軍人が共謀してテロを起こし首相を殺害するなど許し難い暴挙ですが、驚くのは、国民の間で助命嘆願運動が起こったことです。裁判での犯人たちの真摯な心情が報道されると、百万人を超える減刑嘆願書が裁判所に寄せられます。まさに国民運動とも思える動きにより、将校らへの量刑は異常に軽いものとなりました。このことが陸軍将校の反乱である二・二六事件を後押ししたといわれています。
四年後の昭和十一年(1936)、陸軍の「皇道派」といわれた一部の青年将校たちが約千四百人の兵士を率いて、首相官邸や警視庁などを襲撃するクーデター事件が起きました。二・二六事件です。これは「五・一五事件」をはるかに上回る規模の事件でした。
青年将校たちは高橋是清大蔵大臣や
齊藤実
内大臣を殺害し(
岡田啓介
おかだけいすけ
首相は難を逃れた)、国会周辺を占拠しました。高橋は陸軍の予算を削ったことで青年将校の恨みを買っていたのですが、将校らは腐敗した(と彼らが思う)政党や財閥や政府重臣らを取り除き、「天皇親政」という名の軍官僚による独裁政治を目指していました。これは立憲君主制を謳った大日本帝国憲法を否定するものでした。
ところが、侍従武官長は、
蹶起
けっき
した青年将校たちの心情だけでも理解してもらいたいと昭和天皇に上奏します。しかし、大日本帝国憲法を否定するクーデター行為に反発した昭和天皇は、「朕が
股肱
ここう
の老臣を殺戮す。此の如き凶暴な将校等、其精神に於いても何の
恕
じょ
すべきものやありや」と怒りをあらわにして一蹴しました。そして軍首脳部に「速やかなに鎮圧せよ」と命じたのです。ところが、陸軍首脳部が部下を討つことに躊躇します。すると天皇は自らが近衛兵を率いて鎮圧すると示唆しました。これによりようやく鎮圧部隊が動き、反乱軍は三日後に鎮圧されました。
現代においてもなお、二・二六事件を起こした青年将校らを「理想主義者」と見做す人がいますが、テロリズムの容認は民主国家において絶対にあってはならないことです。したがってこの時の昭和天皇の決断は完全に正しいものと私は考えます。
首謀者らは死刑となりましたが、この事件は、日本の全体主義的傾向に決定的な影響を与えることになります。この事件を契機に「皇道派」と対立していた「統制派(軍の統制を重視し、軍による国家総動員体制を構築グループ)」が軍の主導権を握り、官の主導で軍部大臣現役武官制を復活させ、軍が政治を動かす体制を作り上げたからです。
また軍を批判するとテロの標的にされるという恐怖から、政治家は軍を批判出来なくなってしまいました。二・二六事件以降、「統制派」が統制経済、言論の自由弾圧といった全体主義的な政策を推進していく異常事態となったのです。 |