~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
満洲は中華民国のものか
柳条湖事件の翌年となる昭和七年(1932)、関東軍主導のもと、満洲は中華民国から分離され、「満州国」が建国されました。国家元首には清朝最後の皇帝、 愛新覚羅 あいしんかくら が就任しました。
アメリカやイギリスは、ワシントン会議で締結された「九ヵ国条約」違反だとして、日本に抗議しました。「九ヵ国条約」は、中国(China)の門戸開放、機会均等、主権尊重の原則を包括したものでしたが、実はこの条約におけるChinaに「満洲」が含まれているかどうかについては曖昧なままでした。
満洲は古来、漢民族が実効支配したことは一度もありませんでした。万里の長城よりも北は、蛮族が住む「化外の地」と見做していたのです。昔から満洲は 匈奴 きょうど や女真族などの騎馬民族が支配する地であり、ここからうって出た女真族が漢民族の地を支配し、北京を都として出来たのが清帝国です。
清はその後、トルコ系民族(ウィグル人など)が住む 西域 せいいき 吐蕃 とばん (チベット)を版図に加えましたが、これも名目上のことで、チベットを満洲人が直接支配したわけではありませんでした。
この大帝国が終焉へと向かう明治四十五年(1912)、南京に臨時政府を建てた孫文が、「中華民国は清朝の領土を引き継ぐ」と宣言します。ただしこれは、孫文の一方的な宣言にすぎず、そもそも女真族の土地であった満洲全土が、この宣言一つで中華民国の実行支配下に置かれたはずもありません。中華民国の体制は非常に弱く、その支配は限定的で、満洲に限らず、広い版図の大半の地域に地方軍閥の割拠を許していました。
しかし列強は九ヵ国条約に照らして日本を非難し、国際連盟は事件の背景を調べるためにリットン調査団を派遣しました。この時、調査団は「満洲における日本の権益の正当性」や「満洲に在住する日本人の権益を、中華民国が組織的に不法行為を含む行いによって脅かしている」ことを認める報告書を出しています。
だがその一方で、調査団は日本による満州国建国は認めず、満洲の占領地からの日本軍撤退と、満洲を非武装地帯として国際連盟の機関が治安維持を担うことを提言しました。国際連盟はこの提言を「公正であり妥当なもの」と見做しましたが、日本はこれを拒否し、昭和八年(1933)、国際連盟を脱退しました。
このあたりが日本の交渉術の拙さといえます。いったんは引き、タイミングを見て再度の調整を試みるなり、あるいは満洲の権利をいくつかの国に与える形で根回し工作するなどすべきだったと思うのですが、そうした形跡はまるでありません。私は明治の政府にあった柔軟性が昭和の政府には失われていたような気がします。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に勝利したことにより、また世界の列強に加わったことで、非常に傲慢で短気な国家に変わっているように思えてなりません。明治維新からわずか六十五年で日本という国は大きく変貌したのです。
そして国際連盟を脱退したことで、日本は後戻り出来ない道へと進んだともいえます。
2026/01/06
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