~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
大正デクラシー
世界も日本も激動の中にあって、大正の日本は民主制が発展した時でもありました。明治時代に権勢を振るった元薩摩藩と長州藩出身者による藩閥政治は後退し、選挙によって選ばれた政治家や政党が内閣を作る時代となりました。もっとも、当時は元老(維新に功績のあった薩長出身の重鎮)の推薦がなければ組閣は出来ず、「選挙に勝つ」=「組閣」という形にはなっていませんでした。それでも民主制に大きく近づいたことは間違いありません。
日本で最初の本格的な政党内閣を作った原敬はらたかしは、爵位を持たない初めての総理大臣となりました(そのため平民宰相と呼ばれた)。「平民」であったばかりか、原はかつて賊軍であった元南部藩家老の息子です。その原は大正十年(1921)にテロリストによって暗殺されました。
大正時代には市民運動も盛んになり、経済成長を背景に工場労働者が急増したことを受けて全国で労働組合も組織され、労働争議も頻繁に起こりました。また小作農たちが権利を求めての小作争議も増えました。大正十一年(1922)には、部落解放を掲げた「全国水平社」が組織され、女性の地位向上のための婦人運動も活発になります。こうした自由な空気と民主制への流れは後に、「大正デモクラシー」と呼ばれました(「大正デモクラシー」という言葉は大東亜戦争後に生まれた歴史用語)
こうして大正十四年(1925)には、ついに普通選挙制度が出来ました。納税額による制限が撤廃され、満二十五歳以上の男性全員が参政権を持つことになったのです(ただし女性には参政権は与えられなかった)。日本は少しずつではありますが、民主的な国家へと成長しつつありました。
もっとも同じ年に悪名高い「治安維持法」が作られています。これは同年にソ連との国交回復のための「日ソ基本条約」が締結された際に作られたもので、大正十一年(1922)にソ連のコミンテルンの日本支部として日本共産党が出来たことも影響しています。前述したようにコミンテルンはソ連のような共産主義革命を目標としていて、日本共産党も君主制の廃止などを謳っていたため、政府は共産主義者らの破壊活動や反国家活動を抑え込むために治安維持法を制定したのです。しかし同法は後に官憲によって悪用され、国民の生活や活動を制限していく悪法となります。
第一次世界大戦後と後述する関東大震災を機に国民の生活も大きく変わりました。
街には活動写真(映画)を上映する劇場が多く作られ、ラジオ放送も始まりました。
食生活でも、カレーライス、とんカツなどの洋食や、キャラメルやビスケット、ケーキが庶民生活の中に溶け込んでいきました。東京や大坂には鉄筋コンクリートのビルが立ち並び、デパートが誕生し、バスが運行しました。電話交換手やバスガールなど、女性の社会進出も盛んになっていきます。
雑誌や小説が数多く発行され、芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう志賀直哉しがなおやなどの人気作家が続々と現れました。東京六大学野球や全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)、宝塚歌劇団が生まれたのもこの頃です。子供向けの娯楽も誕生し、動物園、遊園地、雑誌、レコード(童謡)、玩具なども多く作られました。
明治維新からひたすら富国強兵に励んできた日本でしたが、大正時代になってようやく国民が娯楽や愉しみを享受出来るようになりました。ただ、一方で社会格差が広がったのも事実です。大企業で働く人たちと、貧しい労働者や農村部の小作農たちの生活水準の差は広がり、社会問題となりつつありました。
2025/12/29
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