~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
「対華二十一ヶ条要求」に見る日本外交の稚拙さ
第一次大戦中の大正四年(1915)、日本は、袁世凱の中華民国政府に対して、ドイツが山東省に持っていた権益を譲ることなどを含む「二十一ヶ条要求」を出しました。その内容は中華民国にとって厳しいものでしたが、当時の国際情勢においては、ごく普通の要求でした。しかも最初は日本と中華民国双方の納得の上での話だったものを、中華民国側から「日本の要求という形にしてほしい、我が方はやむなく調印したという形にしたい」という申し出があったため、日本側は敢えて「要求」という形にしたのでした。
これは日本の外相だけでなく、中国に詳しいアメリカの外交官、ラルフ・タウンゼントも認めていつことです。また孫文も「二十一ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され『要求』された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」と言っています。
「対二十一ヶ条」の一部は外部には漏らさないという密約の上で交された条約でしたが、袁世凱はそれを破って公にし、国内外に向かって、日本の横暴さを訴えました。そのため、中華民国内で反日感情が沸き起こります。欧米列強もまた日本を糾弾しました。日本はまんまと袁世凱の策略に引っかかったのです。現代でも「二十一ヶ条要求」は日本の非道さを表われのように書かれている日本の歴史教科書がありますが、これは正確な見方とはいえますん。
つくづく当時の日本外交のお粗末さに呆れるしかありません。外交とは騙し合いの一種であるということが、単純な日本人には理解出来なかったのでしょう。しかし、情けないことに、日本はこの後も外交で同じような目に合い続けます。
ワシントン会議
大正十年(1921)から翌年にかけて、アメリカでワシントン会議が開かれました。参加国はアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中華民国で、これはアメリカが主催した初の国際会議であり、世界初の「軍縮会議」でもありました。議題は「海軍の軍縮」および「中国問題」と「太平洋・極東問題」でした。
軍縮会議では、列強五ヵ国の戦艦のトン数制限と保有率が決められ、その結果は、アメリカ5 、イギリス5、日本3、フランス1.67、イタリア1.67 となりました。膨れ上がる軍事費を押さえたい日本政府は賛成でしたが、海軍の中には「これでは日本を守れない」という意見も少なくありませんでした。
もう一つの重要な議題であった「中国問題」では「中国の領土保全」「門戸開放・機会均等」が条文化されます(九ヵ国条約)。つまり列強も現状以上の中国への侵略は控え、ビジネス的な進出に切り替えようというものでした。これには中国大陸進出に出遅れたアメリカの意向が色濃く反映されていました。
ワシントン会議では、日本の将来に大きく関係する重大事も取り扱われました。それは二十年間も続いてきた「日英同盟」の破棄です。
この同盟の破棄を強引に主張したのはアメリカでした。アメリカはそもそも日英同盟を好もしくは見ていませんでした。そのために明治四十四年(1911)の第三次日英同盟の更新の際には「アメリカとは戦わない」という条文をねじ込んでいるほどです。それでも覇権を狙うアメリカにとって日英同盟は厄介な存在であることには変わりはありませんでした。そこで同盟を破棄させて、日本とイギリスの分断を目論んだのです。
アメリカは日英同盟を破棄する代わりに、フランスとアメリカを交えた「四ヶ国条約」を結んではどうかと日本に提案しました。これは名目だけの「条約」で「同盟」といえるようなものではありませんでした。イギリスは同盟の破棄を望んでいませんでしたが、日本の全権大使、 幣原喜重郎 しではらきじゅうろう は「四ヶ国条約」を締結すれば国際平和につながるだろうと安易に考え、これを呑んで、日英同盟を破棄してしまったのです(失効は大正十二年【1923】)
日英同盟こそが日本の安全保障の要であり、日露戦争に勝利出来たのも、この同盟があったればこそでした。しかし幣原はその重要性も、また変化する国際情勢における日本の立ち位置やアメリカの思惑といったことを、まったく理解していなかったのです。
日英同盟が破棄されたことで、日本は安全保障上の大きな支えとなり得る同盟を失いました。これこそアメリカが望んでいたことだったのです。
2025/12/28
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