第一次大戦中の大正四年(1915)、日本は、袁世凱の中華民国政府に対して、ドイツが山東省に持っていた権益を譲ることなどを含む「二十一ヶ条要求」を出しました。その内容は中華民国にとって厳しいものでしたが、当時の国際情勢においては、ごく普通の要求でした。しかも最初は日本と中華民国双方の納得の上での話だったものを、中華民国側から「日本の要求という形にしてほしい、我が方はやむなく調印したという形にしたい」という申し出があったため、日本側は敢えて「要求」という形にしたのでした。
これは日本の外相だけでなく、中国に詳しいアメリカの外交官、ラルフ・タウンゼントも認めていつことです。また孫文も「二十一ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され『要求』された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」と言っています。
「対二十一ヶ条」の一部は外部には漏らさないという密約の上で交された条約でしたが、袁世凱はそれを破って公にし、国内外に向かって、日本の横暴さを訴えました。そのため、中華民国内で反日感情が沸き起こります。欧米列強もまた日本を糾弾しました。日本はまんまと袁世凱の策略に引っかかったのです。現代でも「二十一ヶ条要求」は日本の非道さを表われのように書かれている日本の歴史教科書がありますが、これは正確な見方とはいえますん。
つくづく当時の日本外交のお粗末さに呆れるしかありません。外交とは騙し合いの一種であるということが、単純な日本人には理解出来なかったのでしょう。しかし、情けないことに、日本はこの後も外交で同じような目に合い続けます。 |
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