四年にわたる大戦争は、世界の様相を変えてしまいました。戦場となったヨーロッパは荒廃し、イギリス、フランス、ドイツなどの列強が力を失い、代わって躍り出たのがアメリカでした。
アメリカも第一次世界大戦に参戦していたものの、それは最後の一年間だけで、戦死者も十二万人とヨーロッパ諸国に比べれば桁違いに少なく済みました。これは自国が戦場になたなかったからですが、それでも日露戦争における日本の戦死者よりも多いのですから、第一次世界大戦がいかに悲惨であったかがわかります。
日本もまた大きな犠牲を払うことなく(戦死者は三百人)、多くの権益を得た国でした。加えて、ヨーロッパ諸国への軍需品の輸出が急増し、それにつれて重工業が発展しました。さらに、対戦前、ヨーロッパから様々なものを輸入していたアジア地域も、戦争により輸入が困難になったことから、日本への注文が殺到し、結果、日本は大戦中に空前の好景気を迎えました。長らくヨーロッパにあった世界の覇権が、こうして太平洋を挟む二つの国へと移ってきたのです。
ただ、近代兵器による総力戦であった第一次世界大戦の実相を目の当たりにすることがなかった日本は、陸軍の装備において近代化の必要性を学ぶ機会を失いました。このことが後に大東亜戦争で弱点となって現れることになります。
なお、この戦争中、後の歴史を大きく変える二つの出来事がありました。
一つは大正六年(1917)に凝ったロシア革命です。二月に民衆による大規模のストライキと反乱でロマノフ王朝が崩壊し、臨時政府が作られましたが(二月革命)、その後、経済学者のマルクスが唱えた共産主義を信奉するレーニンが軍事クデターを起こして革命政府を樹立しました(十月革命)。一般的には「ロシア革命」という場合、「十月革命」のことを指します。その後、革命政府は皇帝一族を皆殺しにし、独裁体制を築きます。しかし革命政府に反対する勢力が各地で立ち上がり、内乱が起こります。
翌大正七年(1981)、共産主義革命が世界に浸透することを恐れた連合国(イギリス、フランス、アメリカ、日本など)は、反革命政府の軍隊を支援するためにロシアに軍を送ります(名目はチェコ軍団を救出)。日本もシベリアに出兵します。しかし革命政府は大正九年(1920)には反乱軍を抑え込み、大正十一年(1922)、人類史上初めての共産主義国家「ゾヴィエト共産主義共和国連邦」(ソ連)を樹立します。ソヴィエトというのは評議会という意味です。
レーニンの後を継いだスターリンは独裁を強め、国民に言論や思想の自由を認めず、夥しい人を粛清していきます。ソ連はその後、周辺国を連邦内に取り込み、あるいは共産化(赤化)させて勢力を拡大していきます。第二次世界大戦後、その勢いはアジアにも及び、いくつかの共産主義国が生まれます。こうして生まれた国々では多くの場合、宗主国のソ連同様に絶対権力を持つ独裁者が誕生し、国民には思想や言論の自由は与えられず、徹底した監視、管理下に置かれることになります。
同時代の歴史を変えたもう一つの出来事は、西端に代わって石油が最重要な戦略物資となったことです。飛行機、軍艦、戦車、自動車などはすべて石炭ではなく石油を燃料とするため、第一次世界大戦では、連合国側も同盟国側も夥しい量の石油を使いました。「石油の一滴は血の一滴」という有名なセリフは、大戦中にフランスの首相ジュルジュ・クレマンソーがアメリカに石油を要求した電報の一文です(当時のアメリカは世界最大の石油輸出国)。第一次世界大戦はまさに「石油で戦った戦争」だったといえます。同時に、大きなエネルギー革命でもありました。
石油の重要性はこの後もますます高まっていきます。そして産油国ではない日本は、この石油に国の運命を握られることになります。
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