~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-10
明治時代はインフラ整備などを通じて様々な社会改革がなされましたが、文化の面でも特筆すべきことがありました。それは和製漢語が大量に作られたことです。
幕末以降、西洋文明を取り入れる目的で西洋の書物を訳す時、それまで日本にはなかった概念を表現する必要に迫られ、日本人は新しい言葉を作ったのでした。
たとえば「社会、文化、文明、法律、民族、宗教、資本」といった社会用語、また「時間、空間、質量、分子、固体、理論」といった科学用語、「主観、客観、哲学意識、理性」といった哲学用語など、現在も日常的に使われている多くの言葉が、この時代に作られたものです。その総数は千近いといわれています。変わったところでは「恋愛」や「〇〇主義」「〇〇学」といった言葉もそに一つです。
意外なことに、「〇〇である」という表現もこの時代に編み出され、用いられるようになったものです。
明治の日本は、間違いなくアジアで最も高度な文明を持つ国でした。そのため、朝鮮半島や中国大陸から多くの留学生が日本に来て、文化を吸収して帰りました。
その中には、後の中華民国初代臨時大総統の孫文、中華人民共和国首相の周恩来しゅうおんらいらもいます。それはちょうど幕末から明治初めの日本人がヨーロッパに留学して、文化を吸収したのと似ています。
彼らによって、和製漢語はまたたく間に中国や朝鮮に広められました。現代の中国語も朝鮮語も、これらの「日本語」がなければ、社会的な文章がなりたたないとさえいわれています。ちなみに「中華人民共和国」の「人民」も「共和国」も明治に作られた日本語(和製漢語)です。中国共産党が使っている「共産党、階級、組織、幹部、思想」もそうです。
また日本は欧米の書物を数多く翻訳しました。古今東西の文学のみならず、人文科学、自然科学に至るまで、その種類も夥しい分野へと広がりました。同時代の中国人や朝鮮人、それに東南アジアのインテリたちが、懸命に日本語を学んだ理由の一つがここにもありました。当時、日本語こそが、東南アジアで最高の国際言語だったのです。
不平等条約改正の悲願達成
明治四十四年(1911)、日本はアメリカとの間で日米修好通商条約に残されていた最後の不平等条項である「関税自主権がない」という条文を完全に科し去ることに成功しました。安政五年(1958)に結ばれた不平等条約が、ようやく改正されたのです。
同年、イギリス、フランス、オランダなども次々と不平等条約の改正に応じました。
列強は、日露戦争に勝利した日本を、自分たちと対等の国家と認めたのです。ここに至るまで、何と五十三年の歳月を費やしたことになります。
幕末から明治にかけて、世界は、「植民地獲得競争」の最終局面にありました。極東に位置する島国は、列強から見らば、清帝国とともに最後に残された植民地候補の地でした。
そんな中、大帝国・清は欧米列強に蚕食されていきましたが、日本はきわどいところで踏みとどまりました。旧態依然とした江戸幕府を倒し、まったく新しい社会を築いて、官民一丸となって富国強兵を果しまし、列強の圧力をはねのけたのです。ただし、その新体制の始まりの時期に、国力のなさと国際条約に関する無知から、不平等条約を結ばされます板。これがある限り、日本は列強と対等にはなれません。明治政府は条約改正のために邁進したといっても過言ではありません。改正のために、産業を興し、軍隊を作り、欧米文化を取り入れたのです。そして日清戦争、日露戦争の二つに勝利して、ついにその悲願を達成したのでした。
条約改正の翌年、明治天皇が崩御しました。慶応三年(1867)、十四歳で即位してから、日本という国が数々の偉業を成し遂げる様を見守て来た、歴史に残る天皇でした。
2025/12/20
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