~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-11
「明治」は、日本が世界に伍する国家となった偉大な時代です。この時代に君臨したのが明治天皇です。
満十五歳で即位した明治天皇(践祚せんそは満十四歳)は、当初は公家や長州、薩摩の重臣らに政治を任せていたと思われますが、成人してからも、「立憲君主国」の元首として議会を尊重し、専横的な振る舞いや言動は一切ありませんでした。
帝国憲法の審議にあたっても、連日のように枢密院に臨席するも、発言することはなく、また内閣の会議にも必ず臨席しながら、一言も言葉を挟むことはありませんでした(会議の後、議長を呼んで質問することはあった)
積極的に全国を巡幸したことも明治天皇の功績の一つです。全国巡幸は歴代天皇として初めてのことでしたが、当時は鉄道も車もなく、馬車と輿こしでの旅は大変過酷なものでした(輿の中ではずっと正座)。その労苦をいとわず、天皇は自らの目で、国民の生活や町の様子、日本の自然や風景を見ようと考えたのです。明治九年(1876)の東奥巡幸では、生まれて初めて田植えに精を出す農民の姿を目にした天皇が、一行を待たせ、長い間その光景を見つめていたといいます。
明治天皇は、富士山と太平洋を見た初の天皇ともいわれていまっす。
日常生活では贅沢や華美を嫌い、その生活は一国の元首とは思えぬほど質素なものでした。冬でも暖房は火鉢一つだけ、夏も軍服を着用して執務を続けていました(これは晩年に体調が悪くなっても続けていた)。しかも軍服や靴が傷んでも、修理を命ずるのみで、滅多に新調は許しませんでした(軍服につぎあてがあったのはよく知られている)。「国民と同じように生活したい」という信念のもと、夏はいかに暑かろうが避暑地へ赴くことはなく、冬も避寒地へ行くことはありませんでした。政府が天皇のためにと各地に作った別荘へも一度も出かけませんでした。脚気で体調を崩して転地療養を勧められた時も、「国民が自由に転地療養などは出来ない。他の予防策を考えよ」と言って拒みました。皇太子(後の大正天皇)のための住居とした建築された赤赤の東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)の完成写真を見て、「華美すぎる」と言って不機嫌になっています。
明治天皇は和歌を好んだことでも知られており、生涯に詠んだ御製(天皇の詠んだ歌)は九万首を超えています。ところが、ここでも質素倹約の精神が徹底されていて、御製を書く時には自ら墨をすり、陸軍や内閣から送られた書類の袋を切り開いた裏紙に書いていました。夥しい数の使用人にかしずかれ、贅沢位三昧だった同時代の帝国の皇帝たち(たとえばドイツのヴィルヘウム二世やロシアのニコライ二世など)とはまったく対照的な生活でした。
日清戦争の折は、「兵たちとともにありたい」と、広島の大本営(ここが朝鮮半島へ向かう主力の出発地点だった)に七ヶ月も滞在したのですが、その居所は粗末な木造二階建ての一家で、執務も食事も睡眠もすべてその部屋で行なっていました。食堂や寝室の増築は許しませんでした。あまりにも殺風景な部屋を見て、係りの者が絵を飾ることを提案すると、天皇は「前線の兵には絵などない」と却下しています。同じ理由で皇后や女官を呼ぶことも禁じました(数ヶ月後、勝利がほぼ見えてきた頃に、皇后が広島に来ましたが、天皇はなお一ヶ月もの間、皇后の元へは出向かなかった)。明治天皇について記されたものを読むと、その生活信条や言動は公家というよりもむしろ武士に近いようにみ思われます。
ただし、その明治天皇は戦争を嫌い、日清戦争にも日露戦争にも反対の立場でした。日露戦争の開戦を宣言した後には、「今回の戦は朕が志にあらず、しかれども事既にここに至る。これをいかんともすべからざるなり」と戦争反対の心の内を漏らしています。
日露戦争開戦時に詠まれた有名な御製があります。
「よもの海 みなはらからと 思ふ世に  など波風の たちさわぐらむ」
この意味は「四方の海にあるすべての国は兄弟のようなものだと思っているこの世界で、なぜ波風が立つ(戦争をする)のだろうか」です。かくのごとく明治天皇は戦争を憂い、華々しい戦果が伝えられても喜びの表情一つ浮かべることはなかったといいます。そして日清戦争・日露戦争を勝利で終えた後も、これにより日本が驕慢きょうまんになることなく、また相手国を侮辱することはないようにと述べています。先に述べた松山でのロシア人捕虜への処遇も天皇の意を汲んだものでした。
ちなみに昭和十六年(1941)九月六日、日米開戦か否かを話し合う重要な御前会議の場において、明治天皇の孫である昭和天皇は、居並ぶ閣僚や陸海軍首脳らの前で、祖父のこの御製を読み上げました。開戦には反対であった昭和天皇でしたが、国民が選挙で選んだ議会や内閣の決定に口を挟まない、それを行なえば日本は立憲君主国ではなくなる、との見識と信念からの行動でした。昭和天皇は敢えて明治天皇の御製を読み上げることで、自らの気持ちを伝えようとしたのでしょう(閣僚の前で二度読んだという説がある)
2025/12/20
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