明治時代の日本人は、あらゆる分野で「世界に追いつき追い越せ」と多くの技師や学者が欧米に渡って、技術や学問を懸命に学びました。その全員を紹介することは出来ませんが、ここでは古市公威をその代表として挙げます。
帝国大学工学科大学初代学長の古市公威は、内務省土木局のトップとして全国の河川治水、港湾の修築を行ない、近代日本土木行政の骨格を作った人物ですが、明治八年(1875)にフランスに留学した時の猛烈な努力は有名です。彼のあm、ありの猛勉強ぶりを見て、このままでは身体を壊してしまうと心配した下宿先の女主人が、少しは休むようにと言うと、古市は「自分が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えたという逸話が残っています。
このような気概を持っていた留学生は、おそらく古市だけではなかったことでしょう。日本があっという間に欧米に追いついたのは、こうした日本人が大勢いたからに他なりません。日本という国がその後、世界に冠たる国家となったのは、彼らのお陰といっても過言ではないのです。ちなみに昭和を代表する作家、三島由紀夫みしまゆきおの本名は平岡公威ひらおかきみたけですが、これは内務官僚だった三島の祖父が尊敬する古市公威にちなんで命名したものです。
日本人は医学の世界でも素晴らしい業績をあげています。明治二十七年(1849)六月十四日、北里柴三郎きたざとしばさぶろうは香港で、世界で初めてのペスト菌を発見しました(フランス人、アレクサンドル・イルサンはその翌週の二十日に発見)。北里はその後ドイツで破傷風の血清療法についてエミール・ベーリングと共同開発の形で発表するという画期的な業績を残しています。明治三十三年(1900)には、高峰譲吉たかみねじょうきちが世界で初めてアドレナリンの結晶抽出に成功し、明治四十三年(1910)、鈴木梅太郎すずきうめたろうは世界で初めてビタミンB₁の抽出に成功しています。
いずれも世界的大発見であり、人類への貢献度の高さは計り知れないものがありました。にもかかわらず、当時の欧米の医学界に認められなかったり、欧米人に業績を横取りされたりして、前記の三人はノーベル賞を受賞できませんでした。おそらく強いアジア人差別が「根底にあったものと思われます。
私が何より驚嘆するのは、三人が義務教育の制度などなかった時代に少年時代を過ごしてることです(北里・高峰は江戸時代の生まれである)。彼らは少年時代に藩校で学び、成人して科学の世界で欧米人の成し得なかった偉大な業績を残したのです。あらためて当時の日本人の凄まじいまでの勤勉さと優秀さ、気骨に胸を打たれます。
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