~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
韓国併合
日本は日露戦争後、大韓帝国を保護国(外交処理を代わりに行なう国)として、漢城に統監府を置き、初代統監に伊藤博文が就きました。この時大韓帝国を保護国とするにあたって、列強の了承を取り付けています。
日本は当初、大韓帝国を近代化によって独り立ちさせようとし、そうなった暁には保護を解くつもりでいました。日本国内の一部には韓国を併合しよという意見もありましたが、併合反対の意見が多数を占めていました。これには「朝鮮人を日本人にするのは日本人の劣化につながる」という差別的な考えもあったものの、一番の理由は「併合することによって必要になる莫大な費用が工面できない」ということでした。
日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行なうつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富でなかっただけに、併合によるメリットは少なかったのです。統監の伊藤博文自身が併合には反対の立場を取っていました。
しかし明治四十二年(1909)伊藤がハルピンで朝鮮人テロリストによって暗殺され、状況は一変します。国内で併合論が高まると同時に、大韓帝国政府からも併合の提案がなされました。大韓帝国内の大規模な政治結社であった「一進会」(会員八十万~百万人と自称)もまた、「日韓合邦」を勧める声明文を出しました。
それでも日本政府は併合には慎重でした。益少ない上に、世界の列強がどう見るか憂慮したためでもありました。そこで日本が列強に「大韓帝国の併合」を打診すると、こrに反対した国は一国もありませんでした。それどころかイギリスやアメリカの新聞は「東南アジアの安定のために併合を支持する」という内容の記事を書いたのです。このに至って日本はようやく大韓帝国の併合を決断します。
繰り返しますが、韓国併合は武力を用いて行なわれたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行なわれたものでもありません。あくまでも両政府の合意のもとでなされ、当時の列強も支持していたことだったのです。もちろん、朝鮮人の中には併合に反対する者もいましたが、そのことをもって、今日の大韓民国(韓国)の言い分のように併合が非合法だなどとはいえません。」
余談になりますが、大東亜戦争後に誕生した韓国は、併合時代に日本から様々なものを奪われたと主張していますが、そのほとんどは云いがかりに近いもので、むしろ日本は朝鮮半島に凄まじいまでの資金を投入して、近代化に大きく貢献しました。列強が植民地に資本を投入して、近代化を促進させた例はほとんどありません。
日本の朝鮮統治における近代化政策の例をいくつか挙げると、併合前まで百校ほどしかなかった小学校を四千二百七十一校に増やし、全国の児童に義務教育を施し、100パーセント程度であった国民の識字率を600パーセントにまで引き上げています。
ハングルを普及させたのも日本です。
また全土がほぼはげ山だったところに約六億本もお木を植え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至る所に鉄道網を敷き、工場を建てました。新たな納地を開拓し、漑灌を行ない、耕地面積を倍にしました。それにより米の収穫量を増やし、三十年足らずで人口を約二倍に増やしたのです。同時に二十四歳だった平均年齢を四十二歳にまで延ばしました。厳しい身分制度や奴隷制度、おぞましい刑罰などを廃止しました。これらのどこが収奪だというのでしょうか。
たしかに当時の日本の内務省の文書には「植民地」という言葉がありますが、これは用語だけのことで、政策の実態は欧米の収奪型の植民地政策と同列に見るものではありません。また 日本名を強制した事実もなければ、「慰安婦刈り」をした事実もありません。その傍証はいくらえも挙げることが出来ますが、本書のテーマではないので、詳細は省きます。
ただ、これはあくまでも結果論ですが、百年以上後の現代まで尾を引く国内および国際問題となった状況を見れば、韓国併合は失敗だったと言わざるを得ません。日本は大韓大国に対し、あくまでも保護国として自立させる道を選ぶべきでした。それが両国にとって最善の道であったと思います。その場合、韓国の自立や近代化はおそらく何十年も遅れたことでしょうが、その責は日本にはありません。
2025/12/19
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