~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
怒り狂う民衆
ポーツマス条約の内容を知った日本民衆は、賠償金を取れない政府に対して怒りを爆発させました。日清戦争の経験から、戦争に勝てば賠償金を取れると思い込んでいたからです。
国民は、日本がぎりぎりの状況であることを知らされていませんでした。仮に政府がその情報を公開すればロシアを利することとなったため、秘密保持はやむを得ないことでありました。
日露戦争で約八万人という、日本の歴史上、最多の戦死者(日清戦争の約六倍)を出したのです。国民からすれば、これほどの犠牲を払って勝利したにもかかわらず、何の見返りもないのは許せないという気持ちだったのでしょう。また新聞社が政府の弱腰を叩いたことも作用して、世論は政府非難一色となりました。当時の朝日新聞は九月一日、「大々屈辱」「講和憤慨」「日本政府自ら日本国民を侮辱するに当たる」などという強烈な記事を載せています。
こうした記事が出た後、全国各地で「閣僚と元老を辞めさせ、講和条約を破毀しTロシアとの戦争継続を求める」という主張を掲げた集会が行なわれるようになります。
九月五日には、東京の日比谷公園で、条約に反対する国民集会が行なわれましたが。民衆が暴徒と化し、内務大臣官邸や周辺の警察署、派出所を襲撃し、東京都内の十三ヵ所に火が付けられました。この時、講和条約に賛成した国民新聞社は暴徒に焼き討ちされています。東京は無政府状態となり、翌日、政府は厳戒令(緊急勅令による行政戒厳)を敷いて近衛このえ師団(天皇と皇居を警備する師団)が出動し、ようやく鎮圧しました。死者十七人、負傷者五百人以上、検挙者二千人以上とう凄まじい暴動でした。この事件は「日比谷焼打事件」と呼ばれています。
私は、この事件が、様々な意味で日本の分水嶺となった出来事であると見ています。
すなわち、「新聞社(メディア)が戦争を煽り、国民世論を誘導した」事件であり、「新聞社に先導された国民自らが戦争を望んだ」、そのきっかけとなった事件でもあったのです。この流れは、大正に入って鎮火したように見えましたが、昭和に入って再燃し、日本が大東亜戦争になだれ込む一因ともなりました。
2025/12/18
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