~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
ポーツマス条約
日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅し、ロシアに戦争継続の意思を失わせましたが、その時点で、実は日本にも余力は残っていませんでした。一年半余の戦いで、日本がつぎ込んだ戦費は、国家予算の約八倍に当たる二十億円という膨大なものでした。もともと単機決戦で講和に持ち込もうと考えていた政府は、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に仲介を依頼しました。
明治三十八年(1905)八月、アメリカのポーツマスで行なわれた日露講和会議では、日本側(全権委員は小村寿太郎こむらじゅたろう)の要求がことごとくロシアに拒否されます。ロシア皇帝ニコライ二世が全権大使のセルゲイ・ウィッテに「一銭の賠償金も一握りの領土も提供してはならない」と厳命していたからです。ニコライ二世は日本が倍賞君にこだわるようなら、戦争を継続そてもいいと考えていました。日本政府は、戦争が再開されれば、最終的には敗れることになるとわかっていたため、「賠償金なし」「樺太の南半分を日本に割譲」という妥協案で講和を結び、日露戦争は終結しました。
賠償金を取ることは出来ませんでしたが、「朝鮮半島における優越権」「旅順、大連の租借権を日本に譲渡」などをロシアに認めさせたことで、極東地域における日本の支配力は拡大しました。
コラム-09
世界海戦史上に残る一方的勝利となった日本海海戦ですが、実はバルチック艦隊の水兵たちは戦う前にすでに満身創痍の状態でした。
彼らは前年の十月にリバウ軍港を出て、対馬海峡に到着するまで七ヶ月もの間ほとんど船の上で過していたにです(経路は、バルト海、北大西洋、南大西洋、インド洋、南シナ海、東シナ海、日本海というものだった)
その長い航海の間、彼らは日本の同盟国イギリスの妨害などで、ほとんど港に入れず。石炭や水や食料の補給に困難をきたします。当時は冷蔵庫などもなく、肉や野菜を新鮮なまま保存するのは困難で、水兵の多くが飢えや病気に苦しみました。しかも暑さに慣れていないロシア兵が灼熱の赤道を二度も超えたのです。そのため多くの水兵が病死しています。
バルチック艦隊が日本列島を迂回して、太平洋を通ってウラジオストックに向かうことが出来なかったのも、燃料が欠乏し短距離を取るしか方法がなかったためでした。また良質の無煙炭を補給することが出来ず、艦の性能を落とした上に、煙をもうもうと吹き上げて、日本の哨戒艇に早期に発見されてしまいました。こうしたことを見れば、日本にとって日英同盟がいかに重要なものであったかがわかります。もし日英同盟が結ばれていなければ、「日本海海戦」の結果は変わっていた可能性もあります。
その日英同盟の陰の立役者が、「義和団の乱」で活躍した前述の柴五郎です。戊辰戦争で敗れ、国と多くの家族を失った元会津藩士の男が、日本を救ったのです。
柴はその後も激動の時代を生き延び、大東亜戦争で日本の敗戦を見届けます。
生涯で二度にわたって国が敗れるという辛い経験をした柴は、長年つけ続けていた日記を焼くなど身辺を整理し、九月十五日に自決を図りました。しかし老齢(八十五歳)のため果せず、三ヶ月後、その時の傷がもとで病死します。墓は会津若松市の柴家の菩提寺であった恵倫寺にあります。
2025/12/17
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