日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅し、ロシアに戦争継続の意思を失わせましたが、その時点で、実は日本にも余力は残っていませんでした。一年半余の戦いで、日本がつぎ込んだ戦費は、国家予算の約八倍に当たる二十億円という膨大なものでした。もともと単機決戦で講和に持ち込もうと考えていた政府は、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に仲介を依頼しました。
明治三十八年(1905)八月、アメリカのポーツマスで行なわれた日露講和会議では、日本側(全権委員は小村寿太郎)の要求がことごとくロシアに拒否されます。ロシア皇帝ニコライ二世が全権大使のセルゲイ・ウィッテに「一銭の賠償金も一握りの領土も提供してはならない」と厳命していたからです。ニコライ二世は日本が倍賞君にこだわるようなら、戦争を継続そてもいいと考えていました。日本政府は、戦争が再開されれば、最終的には敗れることになるとわかっていたため、「賠償金なし」「樺太の南半分を日本に割譲」という妥協案で講和を結び、日露戦争は終結しました。
賠償金を取ることは出来ませんでしたが、「朝鮮半島における優越権」「旅順、大連の租借権を日本に譲渡」などをロシアに認めさせたことで、極東地域における日本の支配力は拡大しました。
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