~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
日本海海戦
日露戦争について詳しく語ろうとすれば、本一冊ではとても足りません。緒戦の 鴨緑江 おうりょくこう の戦いや、二〇三高知をめぐる死闘など、ドラマティックな史実が山盛りですが、本書はあくまでも通史であることから、戦況の詳細は省くことにします。
二十世紀に入って初めて行なわれたこの列強同士の戦争は、日清戦争とは比較にならないほどの激しい戦いとなりました。各地で互いに夥しい死者が出る激戦となりますが、明治三十八年(1905)一月、日本は旅順を陥落させ、同年三月、奉天会戦でロシア軍を退却させます。この戦いは日本軍二十五万人、ロシア軍三十七万人という空前の大決戦でしたが、秋山好古少将の陽動作戦に怯えたクロパトキン司令官が余力を残したまま撤退するという失態を犯しました(この責任を問われ、司令官を罷免されている)
それでもロシアには講和する意思はありませんでした。なぜなら、当時世界最強といわれたバルチック艦隊がバルト海のリバウ軍港を出てウラジオストックに入れば、日本と大陸の輸送路が遮断され、日本の戦争継続は不可能になると見られていました。実際この時点で日本の物資や兵員は底をつきかけており、日本が勝利するためには、バルチック艦隊を撃滅するしかなかったのです。日本政府はすべてを海軍の 聯合 れんごう 艦隊に懸けることとなり、水兵は決戦に向けて、連日、猛訓練を行ないました。
そして彼らはその任務を見事なまでに遂行しました。明治三十八年(1905)五月、対馬海峡において、聯合艦隊は、命参謀の秋山真之(秋山好古の弟)の作戦、司令長官の東郷平八郎の決断力そして将兵たちの奮戦により、バルチック艦隊をほぼ全滅させたのです。
「日本海開戦」と呼ばれるこの戦いにおいて、ロシア艦隊は戦艦六隻、巡洋艦五隻を含む二十一隻が沈没、日本が失ったのは小型の水雷艇三隻という、世界海戦史上に残る一方的勝利に終わりました。ウラジオストックに入港できたロシア艦はわずかに四隻でした。ちなみに東郷は 弘化 こうか 四年(1847)、秋山は明治元年(1868)、それぞれ薩摩藩士、松山藩士の子として生まれており、二人もまた明治維新政府が機能する前に生まれた男たちだったのです。
余談ですが、日本海海戦は「 丁字 ていじ 戦法」(T字戦法ともいう)によって勝利したという定説があり、多くの歴史書にもそう書かれていま。丁字戦法とは敵の縦列艦隊に対し、その進行方向を押さえる形に艦隊を配し、それが上から見て「丁」の字になることから名付けられた戦法で、艦隊の砲戦では最も理想的な攻撃隊態勢とされています(味方の艦の主砲と舷側の砲はすべて撃てるのに対し、敵艦の砲は前部の主砲しか撃てない)。しかし実は聯合艦隊が丁字戦法で勝利したというのは誤りです。丁字戦法を目指していたのですが、実際には並行航行での砲戦となったというのが真実です。「日本海開戦」の圧倒的な勝利と、後で秋山が講演などで丁字戦法を用いたと語ったことから、それがいつのまにか定説になってしまったようですが、真の勝因は水兵たちの練度の高さと、指揮官の勇猛果敢な精神にあったのです。
また完全ともいえる勝利を得ることが出来たのは、日本の戦艦の砲撃によって損傷しながらもウラジオストック港に逃げ込もうとするロシア軍艦を追撃し、近距離に肉薄して魚雷攻撃で仕留めた拘束の駆逐艦や水雷艇の活躍があったからです。そしてこれらの船の多くは小栗忠順が作った横須賀造船所で建造されたものでした(旗艦「三笠」などの戦艦は外国製)。東郷が小栗の遺族に感謝を述べた理由はそこにありました。
「日本海海戦」の敗北により、さすがのロシア皇帝もほぼ戦意を喪失しました。
日本の勝利は世界を驚倒させました。三十七年前まで鎖国によって西洋文明から隔てられていた極東の小さな島国が、ナポレオンでさえ勝てなかったロシアに勝利したのですから当然です。しかもコロンブスがアメリカ大陸を発見して以来、四百年以上続いてきた、「劣等人種である有色人種は、優秀な白人には絶対に勝てない」という神話をも打ち砕いたのです。日本の勝利が世界の植民地の人々に与えた驚きと喜びは計り知れないものでした。
十六歳の時に日本の勝利を聞いた後のインドのネール首相は、こう語っています。
「自分たちだって決意と努力しだいではやれない筈がないと思うようになった。そのことが今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げさせることになったのだ」
ビルマの(現在のミャンマー)の独立運動家で初代首相のバー・モウは回想録『ビルマの夜明け』で、その時の気持ちを次のように書いています。
「私は今でも、日露戦争と、日本が勝利を得たことを聞いた時の感動を思い起こすことが出来る。私は当時、小学校に通う幼い少年に過ぎなかったが、その感動はあまりに広く行きわたっていたので、幼い者をもとりこにした」
トルコでは子供に「トーゴー」や「ノギ」(旅順攻防戦の指揮官、乃木希典大将の名前)と名付けることが流行り、後にトルコ青年たちが起こすオスマン帝国の圧政へのレジスタンスにも起きな影響を与えたといわれています。おなじくロシアの侵略に苦しんできたポーランドなどの東欧諸国でも独立運動の気運が高まりました。また長らく欧米の植民地にされてきた中東やアフリカの人々にも大きな自信を与え、これ以降、世界の植民地で民族運動が高まることになります。まさに「日露戦争」こそ、その後の世界秩序を塗り替える端緒となった大事件だったのです。
しかし列強諸国の受け止め方は違いました。日露戦争当時、ヨーロッパにいた孫文そんぶん(中華民国初代臨時大統領)は、バルチック艦隊が日本の連合艦隊によって潰滅させられたニュースが届いた時のことをこう語っています。
「この消息がヨーロッパに伝わると、ヨーロッパの人民は、みなそのために両親をなくしたように悲しみました。イギリスは、日本と同盟を結んでいましたが、イギリス人もこの消息を聞くと、たいていの人は、首を振り眉をひそめて、日本が大勝利を収めたことは、結局、白人にとり、不幸な出来事だと、考えました」(『孫文選集』大正十三年【1924】十一月二十八日神戸での講演より)
列強諸国の間で日本に対する警戒心が強まったのも、この頃からでした。歴史を俯瞰すると、その流れは強まったり弱まったりを繰り返しながら、次第に大きくなっていくのが見てとれます。
なお日悪露戦争に関して一つ付け加えておきたいことがあります。ロシア人捕虜の扱いについてです。松山の収容所には多数の医師や看護師が常駐し、捕虜には十分な広さの部屋があてがわれ、食事は洋食が出されました。ロシアの兵や下士官にとっては本国でも味わえないような快適さだったという証拠がありま。こtれは後にソ連が日本人捕虜に課した過酷な強制労働とは真逆の扱いでした。
2025/12/17
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