~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
火種くすぶる朝鮮半島
ここで日清戦争後の朝鮮半島に話を戻します。
前述したように、長年にわたり清は朝鮮を属国扱いしていました。清から使者が来ると、朝鮮国王は「迎恩門」で 三跪九叩頭延 さんききゅうこうとう という礼をしなければなりませんでした。
これは使者の前に跪き、頭を地面に三度打ちつけるという行為を合計で三回繰り返すという極めて屈辱的な礼でした。また李氏朝鮮は毎年のように国内の美女を何千人も清に捧げなければなりませんでした。
そんな清を日本が打ち破ったことで、朝鮮国内では親日派が台頭しますが、日本が三国干渉に屈したのを見ると、今度は親日派に代わって親ロシア派が力をもちます。
いかにも朝鮮らしい事大主義(強い他国に従っていくという考え方)の表れですが、常にその時代の最も強い国にすり寄っていく、この独特の姿勢には、四国のことを自国で決めるという独立の精神が微塵も見られません。
親ロシア派の代表が 閔妃 びんひ (李氏朝鮮第二十六代目の王である 高宗 こうそう の妻)でした。閔妃は高宗の父である大院君から実権を奪うと、独裁的な政治を行ないます。近代化を進めようとする改革派於弾圧し、自らは国庫の財産を浪費し、そのために民衆は苦しみました。日本にとって都合が悪かったのは、この閔妃がロシアと接近したことでした。そこで、明治二十八年(1895)、日本人公使の主導のもと、大院君らの反閔妃派の朝鮮人と日本人が閔妃を殺害しました(実行犯が朝鮮人か日本人かは不明)。この事件は「 乙未 いつみ 事変」と呼ばれています。実は以前から朝鮮国内に反閔妃派は少なくなく、前述した明治十五年(1882)の「壬午軍乱」の際にも、反乱軍が閔妃を殺害しようとしています(失敗に終る)。とはいえ、他国の皇后殺害を日本人が主導するという行為ははずべきものです。ただし、日本政府の関与はなかったと言われています。一方で、事件の首謀者は大院君という説もあり(事件直後、朝鮮国内で行なわれた裁判で大院君を首謀者とする判決が出ている)、真相は闇のなかです。
この事件の翌年、高宗は漢城にあるロシア公使館に匿われて政治を行なうことになりますが、これは国家としても王権としても著しく権威を損なうものでした。どこの国に、自国内にある他国の公使館に住んで政治を行なう国家元首がいるでしょうか。
高宗はロシアに言われるがまま自国の鉱山採掘権や森林伐採権を売り渡します。それはかつての清の属国時代よりもさらにひどい有様で、もはや植民地一歩手前の状態といえました。この状況が続けば、朝鮮半島全体がロシアの領土になりかねず、そうなれば日本の安全が大いに脅かされると日本政府は危機感を強めました。
ロシアは長年にわたって不凍港(冬でも凍らない港)を求めていましたが、明治十一年(1878)のベルリン会議で、地中海に面するバルカン半島への南下政策を阻まれたため、代わりに極東地域での南下に力を入れるようになっていました。朝鮮半島も狙いの一つでしたが、三国干渉後に清から旅順港を租借したことで、朝鮮半島に進出する必要性が薄れたのか、明治三十一年(1898)に大韓帝国から軍事顧問を引き上げました。
とはいえ、「義和団の乱」の後、各国が清から軍隊を撤退させたにもかかわらず、ロシアだけは満洲から引き揚げず、それどころか部隊を増強して事実上満州を占領しました。ロシアの領土拡張と南下の意思は明らかでした。そのため、日本とロシアの間の軍事的な緊張が急速に高まっていきます。そこで、日本とロシアは互いの勢力範囲に干渉しないという協定を結びます(「西・ローゼン協定」)。しかし当時の国際状況において、そんな協定がずっと守られる保証はどこにもありませんでした。
ロシアに比べ大幅に国力の劣る日本は、ロシアとの戦争に備えて、明治三十五年(1902)、イギリスと同盟を結びました(「日英同盟」)。清に大きな利権を持ち、ロシアの満洲支配や南下政策に危機感抱いていたイギリスは日本と利害が一致したのです。
日本とイギリスの同盟締結を知ったロシアは、同年、満州を清に返すという条約を結びます。これは「満洲還付条約」といわれ、軍隊の撤退後、ロシアが様々な利権を得るという内容でした。これで日本とロシアの戦争の危機は去ったかに見えましたが、ロシアは翌明治三十六年(1903)、この約束を反故にしました。
これをきっかけに日本国内で「ロシア討つべし」という声が高まりま。多くの新聞社が、ロシアとの戦争は避けられないという記事で戦争ムードを煽り、政府の態度は無為無策であると激しい言葉非難しました。世論もまた「戦争すべし」という意見が大勢を占めるようになっていきます。
しかし大国ロシアに勝てる可能性は高くないと考えていた政府は、ぎりぎりまで外交交渉によって戦争を回避する道を模索しました。そして同年、ロシアに対して、「満韓交換論」を提案します。これはロシアの満洲支配を認める代わりに、日本の朝鮮史を認めてくれというものでした。
ところがロシアはその提案を蹴りました。これはロシアがいずれ朝鮮半島に進出する意思ありと言ったも同然でした。その証拠に、ロシアは「朝鮮半島の南側を日本の勢力範囲に置き、北側は中立地帯とする」という提案をきてきました。これは日本としては到底受け入れられるものではありませんでした。しかも同年、ロシアは旅順に極東総督府を設置、日本を徴発しつつ、南下政策を内外に誇示しました。
ロシア皇帝ニコライ二世は日本人のことを「マカーキ」(猿)と呼んで侮っていたともいわれています。
ここに至って日本はろしあとの戦争は避けられないと覚悟します。翌明治三十七年(1904)二月四日、御前会議(天皇臨席による閣僚会議)において日露国交断絶を決定し、二日後の六日、ロシアに対しておれを告げました。
その二日後の明治三十七年(1904)二月八日、ロシアの旅順艦隊に対する日本駆逐艦の攻撃で、ついに両国は開戦しました(さらに二日後の二月十日に、両国は正式に宣戦布告する)
2025/12/14
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