明治二十八年(1895)四月、下関条約が結ばれた六日後、ロシアとフランスとドイツが、日本に対して「遼東半島の返還」を要求しました。これは「三国干渉」と呼ばれています。「極東の平和を乱すから」というのが干渉の理由でしたが、それは建前にすぎず、実際は満洲の利権を狙っていたロシアが、フランスとドイツに働きかけて行なったものでした。フランスとドイツには、この干渉に参加することによって清に恩を売り、その見返りを得ようという目論見がありました。互いにロシアと接近するのを阻むために、敢えて手を結んだという事情もありました。日本は、この三国に対抗する国力がなかったため、泣く泣くこの干渉を受け入、遼東半島を清に返還します。日本政府は、悲憤慷慨する国民に対して、「臥薪嘗胆」をスローガンに国力を上げる必要を訴えました。
しかし清から得た二億テールという莫大�賠償金(当時の日本の国家予算の四倍)と遼東半島の還付金三千万テールは日本の財政にとって大きな助けとなります。そのため多くの国民が「戦争に勝てば金になる」という誤った意識を持ってしまいました。この意識が後に日本を危険な方向へ導くもととなったといえます。 |
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