~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
不平等に苦しむ日本
アジアで唯一、近代国家の仲間入りを果たした日本でしたが、江戸幕府が安政時代に結んだ不平等条約の頸木くびきから抜け出ることは容易ではありませんでした。これが国際条約の重みです。
政府は何度も改正を試みて各国と交渉を重ね、明治二十七年(1894)、ようやく「領事裁判権の撤廃」に成功しました。最初に結んだ日米修好通商条約から三十六年かかったことになります。しかし、「関税自主権がない」という条項の完全撤廃は認められませんでした。これが撤廃されない限りは、欧米列強との貿易において常に不利な立場となり、経済的な発展はありません。この改正が認められないということは、列強と同等の国とは認められていないことのあかしでもありました。
コラム-07
不平等条約改正のために、当時の日本人たちは少々情けない振る舞いもしました。日本が西洋のような近代国家になったと目に見える形で示せば、認めてもらえるだろうと考えて、ヨーロッパの文化や風俗を真似たのです。いわゆる「欧化政策」です。前述した「散髪脱刀令」もその一つでしたが、最もひどいのは、「 鹿鳴館 ろくめいかん 外交」と呼ばれるものでした。
外務卿の井上薫いのうえかおるの主導で、明治十六年(1883)に、欧米からの来賓をもてなすために鹿鳴館が建てられ、そこでヨーロッパ風の舞踏会や晩餐会が開かれました。政府高官や彼らの夫人がモーニングやドレスを着て、下手くそなヴァイオリンやピアノの演奏をバックに、フォークとナイフで食事をし、外国人相手にダンスを躍ったのです。
当時は政府の高官といえども、全員が江戸時代の生まれで、西洋風のマナーに通暁した者はいませんでした。そんな日本人の珍妙で滑稽な振舞於を見た欧米人は腹の中で嘲笑していました(悔しいことにそんな記録がいくつも残っている)
もちろん、欧米におもねった「欧化政策」を快く思わない日本人も少なくなく、非難の声も上がりました。結局、井上の外務大臣辞任(明治十八年【1885】に外務卿から外務大臣になっていた)とともに、鹿鳴館時代は幕を閉じました。
2025/12/09
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