明治九年(1876)、明治天皇は元老院議長に、各国の憲法を研究して日本の憲法を起草するよう命じました。この時点では日本はまだ立憲君主国とはいえず、政治の実権は維新の立役者となった一部の重鎮(元老や参議)たちが握っていたのです。
しかし明治元年(1868)の「五箇条の御誓文」の中で、明治天皇は「万機公論ニ決スベシ」として、議会制民主主義の方向性を提示しており、一方、「明治六年の政変」で野に下った板垣退助らは「民撰議院設立建白書」wp提出し、国民が選んだ議員による国会の開設を要求していました。これがきっかけとなって、「自由民権運動」が起こり、全国に広がっていきます。
大政奉還までは、徳川将軍が諸侯の上に君臨し、全国に三百近くあった藩では、農民や町人は、殿様が行なう政道に口を差し挟むことは出来ませんでした。それが、わずか十年で「自分たちも政治に参加させろ」と声を揚げるようになったのです。日本の民権運動と憲政の実現は、この後の世界史にも深く静かに影響していきます。
政府は「自由民権運動」を弾圧しますが、その一方、日本が近代国家となるためには、立件体制を整え、選挙で選ばれた議員による議会が必要だということもわかっていました。そうした認識の下、明治十四年(1881)、「明治二十三年には国会を開設する」との勅諭が出されます。これにより、いくつもの政党が生まれることになります(板垣退助の「自由党」、大隈重信の「立憲改進党」など)。
|
|