~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
立憲政治へ
明治九年(1876)、明治天皇は元老院議長に、各国の憲法を研究して日本の憲法を起草するよう命じました。この時点では日本はまだ立憲君主国とはいえず、政治の実権は維新の立役者となった一部の重鎮(元老や参議)たちが握っていたのです。
しかし明治元年(1868)の「五箇条の御誓文」の中で、明治天皇は「万機公論ニ決スベシ」として、議会制民主主義の方向性を提示しており、一方、「明治六年の政変」で野に下った板垣退助らは「民撰議院設立建白書」wp提出し、国民が選んだ議員による国会の開設を要求していました。これがきっかけとなって、「自由民権運動」が起こり、全国に広がっていきます。
大政奉還までは、徳川将軍が諸侯の上に君臨し、全国に三百近くあった藩では、農民や町人は、殿様が行なう政道に口を差し挟むことは出来ませんでした。それが、わずか十年で「自分たちも政治に参加させろ」と声を揚げるようになったのです。日本の民権運動と憲政の実現は、この後の世界史にも深く静かに影響していきます。
政府は「自由民権運動」を弾圧しますが、その一方、日本が近代国家となるためには、立件体制を整え、選挙で選ばれた議員による議会が必要だということもわかっていました。そうした認識の下、明治十四年(1881)、「明治二十三年には国会を開設する」との勅諭が出されます。これにより、いくつもの政党が生まれることになります(板垣退助の「自由党」、大隈重信の「立憲改進党」など)
帝国憲法
政府は憲法作成に際して、ヨーロッパ各国の憲法を研究するとともに、聖徳太子の「十七条憲法」以来の日本の政治思想の精神に則り、立憲君主制と議会制民主主義を謳った憲法を作成しました。
明治二十二年(1889)二月十一日、「大日本帝国憲法」が公布されましたが、これは明治天皇が憲法作成を命じてから実に十三年の歳月をかけて作られたものでした。
この憲法では、天皇は「神聖不可侵」とされていたことから、今日、戦前の日本が教祖を崇める危険なカルト集団であったかのような誤解が流布しています。これは非常に残念な誤解です。帝国憲法における「神聖不可侵」意味は、国民が天皇の尊厳を傷つけてはならないということにすぎません。その統治権は無制限ではなく、天皇もまた、憲法の条文に従うとされていたのです。
たとえば第十一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥権)という条文があります。
これは政府や議会が介入できないことを意味すると誤解されていますが、実際は政府も議会も
予算を通じて軍に関与することが出来ました。ただしこの第十一条は昭和に入って、政治家や軍の一部によって拡大解釈され濫用されるようになります。いくら憲法の条文がしっかりしていても、その解釈や運用を間違うと大変な事になるという教訓です。これについては後に詳しく述べます。
翌明治二十三年(1890)には、第一回衆議議員総選挙が行なわれました。この時、選挙権が与えられたのは、満二十五歳以上の男性で、直接国税を十五円以上納めてる者に限られました。これは国民をわずか一パーセントにすぎませんでした。
憲法制定と内閣制度の確立により、日本はアジアで初めての本格的な立憲国家となります。またこの前後に民法、刑法、商法などの法律も整備され、これまたアジアで初めて近代法の整備に成功した国となりました。
日本は維新後約二十年をかけて、法整備の点において欧米列強に追いついたのです。
コラム-06
憲法作成と同じ頃、「君が代」が作られました。国際的な儀式や祭典には国歌の演奏が欠かせなかったからです。
「君が代」の歌詞は、平安時代に編まれた『古今和歌集』の詠み人知らずの歌からとられました。原歌は「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」というものでしたが、平安時代末期の本では、「我が君」は「君が代」になっています。歌のもともとの意味は、大切な人の長寿を願うものでしたが、後代になって「天皇の 御代 みよ (すなわち日本国)が長く栄えることを願う歌となりました。江戸時代には、小唄、長、浄瑠璃、祭礼歌、盆踊りなどで、庶民の間で賀歌(めでたい歌)として広く歌われるようになります。ただし、決まったメロディーはありませんでした。
明治十三年(1880)、前記の歌詞に、宮内省雅楽課が戦慄を付け、楽譜制定顧問のドイツ人音楽教師フランツ・エッケルトが洋楽風に編曲しました。以後、「君が代」は世界最古の歌詞を持つ国歌ですから、ある意味「世界最古の国歌」とも言えるのです。
ただ、悲しいことに、昭和に入ってからは、大東亜戦争中に国威発揚のため盛んに歌われたために、戦後、占領軍によって軍国主義的な歌と見做され、禁じられることとなります。
しかし、昭和五十二年(1977)、文部省(現在の文部科学省)は「学習指導要領」で、「君が代」を国歌と表記、さらに平成十一年(1999)には、「国旗・国歌法」が制定され、「君が代」は正式に国歌となりました。なお、昭和四十九年(1974)、政府広報室が世論調査を行なったところ、「君が代」が国歌にふさわしいと答えた人は76.6パーセントでした(ぐさわしくないと答えた人は9.5パーセントであった)
2025/12/08
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