~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
台湾出兵
明治七年(1874)、日本は台湾に出兵しました。これは明治四年(1872)、台湾に漂着した宮古島島民五十四人が台湾の先住民によって虐殺された事件の報復でもありました。
虐殺事件が起きた際日本政府は清帝国に抗議しましたが、清は「台湾は 化外 けがい の地」(統治外の土地)として、責任はないと答えました。日本はその返答を聞き、台湾は清の支配の及ばない土地と解釈して、出兵したのです。実はこの出兵の裏には、明治六年(1873)から政府に対してたびたび反乱を起こしていた士族の不満を外征で逸らそうという狙いもありました。
台湾を制圧した日本は、後に清と交渉し、日本の出兵が自国民(琉球人)への加害に対する義挙であることを認めさせました。。これにより間接的に、琉球が正式に日本に帰属することを清に承認させたということでもあります(一方で、台湾は清の領土であることを認めている)
明治八年(1875)、日本はロシアとあらためて国境画定交渉を行ないました。
安政元年(1854)十二月(新暦1855年二月)に結んだ「日露和親条約」で択捉えとろふ島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領とすることは決まっていましたが、樺太に関しては、「日露両国民の雑居の地」としていました。しかしその後、積極的に樺太経営に乗り出したロシアに対抗するのは難しい状況となり、日本はロシアと交渉します。樺太を放棄する代わりに、千島列島をすべて日本が領有するという「樺太・千島交換条約」を結んだのです。この条約により、正式に千島列島はすべて日本の領土となりました。
朝鮮に開国させる
明治五年(1872)以来、李氏朝鮮に何度も国交を結ぶ要求をしていた日本は、明治八年(1875)、朝鮮半島の 江華島 こうかとう 沖に軍艦「 雲揚 うんよう 」を派遣しました。しかしこの軍艦が朝鮮に砲撃される事件が起きます(江華島事件)。「雲揚」はただちに反撃して朝鮮の砲台を破壊し、江華島を占拠しました。
日本は朝鮮に対し、賠償を求めない代わりに開国を要求し、「日朝修好条約」を締結させました。この条約には、「日本の領事裁判権を認める」などの項目があり、日本が欧米列強と結んだ不平等条約を朝鮮に押し付けたものとなりました。
現代的な視点で見れば、他国に対して不平等条約を押し付けたのは不当な行為ともいえますが、当時の国際感覚では普通の外交でした。国力と情報に劣る弱小国は、強い国の言い分を呑まされることになるというのが、当時の国際常識でもあったからです。「ジャングルの法則」(the law of the jungle)とも呼ばれるこの「力の法則」を、日本は幕末から明治にかけて学んだのでした。ただ、朝鮮の開国に際しては、すべてを強引に進めてはいません。他国に意見を求め、また他国による干渉がないように充分な配慮がなされています。
それにしても、当時の日本の政治家の精力的な動きには感心するほかありません。
内外に様々な大きな問題を抱えつつ、欧米列強の意見を取り入れながら、多くの政策と法律を矢つぎ早に出しています。そのスピード感と実行力は見事です。しかも新政府のすべての政治家が近代国家というのを初めて運営しているにもかかわらずです。
翻って二十一世紀の日本政府からはそうした果断さは完全に失われているといえます。
明治の日本はぎりぎりのところで欧米列強の植民地支配を免れましたが、依然、強国が犇めき合う世界の中に放り出された赤子のような国家でした。問題解決を先延ばしにして悠長に政策議論をしている時間的な余裕はなkったのです。
西南戦争
新政府は国内にも大きな問題を抱えていました。それは前述した不平士族による反乱です。「佐賀の乱」以来、生活に困窮した士族たちが全国各地で乱を起こしていました。
士族を特に怒らせたのが、明治九年(1876)三月の「廃刀令」(正式名称・大礼服並軍人警察官吏等征服着用の他帯刀禁止の件)です。江戸時代を通じて長らく刀は武士の命で、これを取り上げられることは士族の誇りを著しく傷つけるものでした。
さらに同年八月には「秩禄」が全廃される「秩禄処分」がなされ、収入の道を断たれたことで士族の不満が爆発し、その年に立て続きに大きな反乱が起きました(「神風連の乱」「秋月の乱「萩に乱」など。いずれも政府軍によって鎮圧された)
翌明治十年(1877)二月、最大の反乱が九州で起こりました。これは「西南戦争」と呼ばれています。「明治六年の政変」で鹿児島に戻っていた西郷隆盛を総大将とする元薩摩藩の士族たちを中心とした反乱でした。西郷は反乱には乗り気でなかったようですが、部下たちに担ぎあげられる形で反乱軍のリーダーとなったのです。
反乱軍はその年の九月には政府軍に鎮圧され、西郷は自決し、戦争は終わりました。
以後、士族の反乱は途絶えます。ここに戊辰戦争から十年続いていた動乱の時代が終わりを告げ、明治政府はいよいよ本格的に近代国家建設に取り組むこととなるのです。
多くの歴史家が西南戦争の終結をもって「明治維新」の終わりと見做すのも頷けます。
2025/12/05
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