明治七年(1874)、日本は台湾に出兵しました。これは明治四年(1872)、台湾に漂着した宮古島島民五十四人が台湾の先住民によって虐殺された事件の報復でもありました。
虐殺事件が起きた際日本政府は清帝国に抗議しましたが、清は「台湾は
化外
の地」(統治外の土地)として、責任はないと答えました。日本はその返答を聞き、台湾は清の支配の及ばない土地と解釈して、出兵したのです。実はこの出兵の裏には、明治六年(1873)から政府に対してたびたび反乱を起こしていた士族の不満を外征で逸らそうという狙いもありました。
台湾を制圧した日本は、後に清と交渉し、日本の出兵が自国民(琉球人)への加害に対する義挙であることを認めさせました。。これにより間接的に、琉球が正式に日本に帰属することを清に承認させたということでもあります(一方で、台湾は清の領土であることを認めている)。
明治八年(1875)、日本はロシアとあらためて国境画定交渉を行ないました。
安政元年(1854)十二月(新暦1855年二月)に結んだ「日露和親条約」で択捉えとろふ島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領とすることは決まっていましたが、樺太に関しては、「日露両国民の雑居の地」としていました。しかしその後、積極的に樺太経営に乗り出したロシアに対抗するのは難しい状況となり、日本はロシアと交渉します。樺太を放棄する代わりに、千島列島をすべて日本が領有するという「樺太・千島交換条約」を結んだのです。この条約により、正式に千島列島はすべて日本の領土となりました。
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