明治政府は隣国である李氏朝鮮と近代的な国交を結ぼうとし、明治五年(1872)八月に外務大丞を派遣しますが、朝鮮はこれを拒絶しました。中華思想に染まった李民朝鮮(実質は清の属国に近かった)は、西洋化した日本を快く思っていなかったからです。むしろ翌年には朝鮮国内で排日の気運が高まりました。大院君だいいんくん(国王の父)の興宣こうせん大院君は「日本は夷狄いてきに化けた。獣と同じである。日本人と交わった者は死刑に処す」という布告を出しました。
この状況に、政府内で、西郷隆盛、江藤新平えとうしんぺい、板垣退助いたがきたいすけらを中心に「征韓」を唱える声が上がりました(征韓論)。しかしこの時は大久保利通や木戸孝允などの重鎮が使節団で訪欧中であり、明治天皇は使節団が戻るまで決定を保留しました。
明治六年(1873)九月に帰国した大久保利通や木戸孝允らは、対外戦争はまずいと判断して征韓論に反対します。大久保らはまず国内をしっかり治めること、そして国際関係においては樺太の領有問題や琉球の帰属問題の方を優先すべきと考えたからです。
そこで西郷は、自らが使節として朝鮮に赴き、大院君に会って交渉すると言いました。この提案がいったんは認められましたが、西郷が朝鮮に渡れば殺される可能性が高く、そうなれば戦争に発展する危険があると政府は考え、遺韓中止を決定しました。
この時、西郷は「自分が殺されたら、それを大義名分にして朝鮮を攻めろ」と言っていたという話が残っていますが、事実かどうかはわかりません。遺韓が受け入れられなかったことで、征韓を唱えていた西郷や板垣や江藤といった重鎮が政府から去ることとなります。これを「明治六年の政変」と呼びます。
この政変は、表向きは「征韓論」で対立した形ですが、その背景には薩摩と長州藩の対立がありました。また「岩倉遣欧使節団」(内治派)とその外遊中の「留守政府」(征韓派)と呼ばれる者たちの対立でもあったのです。というのも使節団は日本を出発する前に、留守政府に対し、「使節団が欧米で視察中は大規模な内政改革は行なわないこと」と言っていましたが、留守政府は学区制や士族の俸給の停止などの重要改革を行なったことにより、両グループの間で軋轢が生じていたからです。さらに薩摩藩同士の勢力争いや肥前閥同士の内紛などもあ、かなり複雑な対立構造が生んだ政変といえます。
この政変で野に下った板垣退助は、翌明治七年(1874)、後藤象二郎や江藤新らと「愛国公党」を結成し、政府の専制政治を批判し、国会の開設を要求するようになります。この運動はやがて「自由民権運動」に発展していきます。西郷については後述します。
江藤は佐賀に戻り、地元の士族に推される形で「佐賀の乱」(佐賀戦争」とも呼ばれる)を起こします。これは明治の初期に起こった不平士族の大掛かりな反乱の最初のものです。士族たちは、前述の徴兵制に加えて、明治六年(1843)に「秩禄ちつろく奉還の法」が布告されたことにも大きな不満を持っていました。秩禄とは廃藩置県後に士族に与えていた家禄と賞典禄(維新に功労のあった者に対して政府が与えた賞与)をあわせたものでしたが、新政府は財政の圧迫を理由に廃止することにしたのです。それで佐賀で大掛かりな反乱が起こったのですが、この乱は政府軍によって鎮圧されました。リーダーの江藤と
島義勇しまよしたけ(ともに幕末の「佐賀の七賢人」と呼ばれ明治政府の重鎮であった)は斬首の刑に処され、さらし首にされました。これは大久保利通が強引に実行したと言われていますが、あるいは前年の政変の確執があったのかも知れません。
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