~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-05
明治の初期は劇的に社会が変わった時代でしたが、一方では、古くからの文化が軽視され、あるいは失われた側面もあります。その最も悲惨な例が「 廃仏毀釈 はいぶつきしゃく 」です。
明治元年(1868)新政府は「神仏分離令」(神判令)を出しました。これはそれまでの「神仏習合」(神仏混交)という考え方から「仏教」と「神道」を分離しようというものです。実は仏教は日本に輸入されてから、いつの間にか神道と結びつき、その境は曖昧なものになっていました。詳しく説明すると非常に煩雑になるため、敢えて簡略して言うと、「神道による神」と「仏教の仏陀」は同じものであるという考え方です。そのため神社の中に仏具があるということも珍しくありませんでした。「神仏分離令」は神社の中に仏具を置いたり、仏像を神体にすることを禁じたものです。
「神仏分離令」が出された理由はいくつもありますが、その最も大きな目的は、天皇親政の新国家として神道を国教としようという考えがあったことです。『古事記』『日本書紀』にもあるように、皇室は神道と深いつながりがあり、それを復活させようというものです。実はこの考え方は、江戸時代に国学が盛んになった頃から唱えられてきましたが、明治になって新政府が国の方針として取り上げた形となりました。これにより、多くの僧侶は神官になったり、還俗げんぞくさせられました。またそれまで持っていた広大な領地を国家に奪われました(「寺社領上知令あげちれい」)
ただ、残念なのは、「神仏分離令」は「廃仏毀釈」という大衆運動を呼び込んだことです。全国各地で多くの民衆が寺を討ち壊したり仏像や仏画を壊したり燃やしたりしました。この時、おびただしい数の貴重な文化財が失われました。もし現存していたら国宝や重要文化財となったはずの建築や仏像が消滅したことは残念でなりません。奈良の興福寺も境内にあった多くの貴重な塔頭は破壊され、現在、国宝となっている五重塔も一時は薪代としてわずかな金で売りに出されるという話があるほどです。また興福寺に匹敵するほどの大寺院であった天理の山内永久寺は完全に破壊され、現在はその痕跡すらありません。また薩摩藩では藩がこの運動を後押ししたことでその破壊は徹底して行なわれ、現在、鹿児島県には国宝は一つしかありません。他にも悲惨な例は全国に山ほどあります。
このような運動が民衆の間で広まった理由は、江戸時代にあった寺請制度てらうけせいどのためともいわれています。江戸幕府はすべての農民はどこかの寺に檀家として登録することを命じており、そのために寺が戸籍を管理する幕府の出先機関のような存在になっている面もありました。また多くの寺社領(土地)を持った寺は民衆の目には一種の特権機関に映っていたのでしょう。そうしたものが根底にあったところに、新政府が出した「神仏分離令」が引き金となり、寺の破壊という極端な行動に走ったのかも知れません。この運動は五年くらい続きましたが、その後は急速に下火になりました。皮肉なことに結局、新政府が目指した神道を国教にしようということは実現しませんでした。つまり「神仏分離令」は何の益も生み出さなかったというわけです。
わたしは「廃仏毀釈」という大衆運動は、日本史上の汚点となる蛮行であり愚行であると考えています。
2025/12/03
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