~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-04
明治四年(1871)に始まった廃藩置県は、その後、県の数を徐々に整理していき、明治九年(1876)には三十五となりましたが、それぞれの面積が大きすぎるという弊害もあり、明治二十一年(1888)、三府四十三県(北海道を除く)となって、現在の形となりました(その前、明治二年【1869】に蝦夷地が改称されて北海道となり、明治十五年【1882】に函館県、札幌県、根室県が設置された。東京は昭和十八年【1943】に都になっている)。ついまり明治二十一年(1888)の最後の廃藩置県の実施以後、百三十年以上日本の行政単位はほぼ変わっていないのです。
この百三十年の間に、交通網や通信手段、および人々の生活スタイルは激変しました。百三十年前は、ほとんどの人の生活範囲は半径数キロ以内でしたが、現在は県をまたいで行動することは当たり前の日常となっています。道路、水道、電気、あるいはその他の行政も、もはや一県だけで行なっていくのは合理的か否か疑問が生じているにもかかわらず、百三十年そのままとうのも、変化を好まない日本的なやり方のようにも見えます。
江戸時代の二百六十五年間がそうであったように、日本の政府、日本人は基本的に変化や改革を嫌います。そういう点では、やはり明治の初めの十数年こそが特殊な時代だったといえます。江戸幕府の崩壊、襲い来る欧米列強と、激動の中で、大胆な改革をしなければ日本は生き残れないという強い危機感に突き動かされたため可能となったのでしょう。
驚異の近代化
日本は幕末から凄まじい勢いで近代化へと突き進んでいましたが、その流れは明治に入って一層加速しました。
明治五年(1872)に日本初の鉄道が「新橋─横浜」間(約29キロ)で開通しました。私はこの事実に驚愕します。鉄道計画が始まったのは明治二年(1869)十一月、測量が始まったのは明治三年(1870)三月です(戊辰戦争が終ったのが前年の五月)。そこからわずか二年半で最初の鉄道を開通させたことはまさに驚異以外の何者でもありません。
しかもこの時の鉄道は約十キロも海の上を走らせています。というのも、兵部省が高輪の土地を「軍事上必要であるから手放せない」と測量さえ許さなかったからです。それに怒った大隈重信が「ならば海の上を走らせろ」と命じ、「芝─品川」間の海上に堤防を築き、その上に線路を敷いたのです。これは高輪築堤と呼ばれるもので、平成三十一年(2019)に品川駅改良工事の際に当時の石垣の一部が発見されています。
同年、国立銀行条例が作られています。名前は国立となっていますが、すべて民間資本の銀行で、明治十二年(1879)までに百五十三の銀行が作られました。作られた順番による番号が行名となりましたが、現在でもその名前の銀行が地方に残っています。
同年、群馬県富岡で日本初の官営模範器械製糸場である富岡製糸場(現在世界遺産となっている)が操業を開始しました。翌年、ウィーン万国博覧会に、日本は富岡製糸場の生糸を出品し、本場イタリア式生糸に遜色ない優秀品と証明され、見事に第二等進歩賞牌を受賞しています。当時の日本人の優秀さを物語るエピソードです。
政府はこの他にも様々な工場を建設し、全国各地で鉱山を開発しました。すべては近代産業を興して、富国強兵策を進めるためです。
教育にも力を入れ、明治十年(1877)に東京大学を設立しました。この時、東京大学に入学した学生は全員が江戸時代の生まれであり、現代のような義務教育などは受けていません。教授陣の多くは外国人でした。ちなみに明治元年(1868)には慶応義塾大学の前身である慶應義塾、明治八年(1875)には同志社大学前身である同志社英語学校が民間人によって創設されています。また学制を定め、全国を八つの学区に分け(後に七つに変更)、それぞれ大学校、中学校、小学校の数を制定しました。以後、全国に次々と学校が作られていきます。
身分制度も改められました。明治五年(1872)に新たに戸籍が作られ( 壬申 じんしん 戸籍と呼ばれる)、旧公家や旧大名は「華族」、旧武士階級」は「士族」、それ以外は「平民」と記載されました。また移住や職業選択の自由も認められ、いわゆる「市民平等」となりました。ただ、一部地域の戸籍には 穢多 えた や非人は、「新平民」や「元穢多」「元非人」と記載され、後々までも差別問題として残ったこと残念でした。もっとも「壬申戸籍」の「新平民」の記載は俗説で、「元穢多」や「新平民」という記載は全体の一パーセントもないという話もあります。ただ、壬申戸籍は見ることが禁じられているため、真偽は不明です。
明治五年(1872)に陸軍省と海軍省が作られ、翌年には徴兵制後が敷かれました。これにより満二十歳に達したすべての男子は兵役の義務を負うことになりました。
西洋列強と互角に渡り合っていくためには、国民皆兵の軍隊が不可欠と考えたのです。しかし徴兵制度は、それまで軍事は武士のものと考えていた士族からは大いに反発を買いました。一方で、徴兵される平民からも不満が出て、その年から翌年にかけて「血税一揆」(徴兵反対一揆ともいわれる)と呼ばれる農民を中心にした一揆が全国で多発しました。
地租改正によって、江戸時代には禁じられてた田畑を売買することが許され(田畑永代売買禁止令解除)、土地も自由化されましたが、土地には税金が課せられることになりました(地租改正条例)。海軍省と陸軍省も創設されました。同じ頃、郵便制度も確立され、東京、大坂、京都に郵便役所が創設されました。
政府は産業や制度改革だけでなく、西洋の文化を積極的に取り入れ、国民にも半ばそれを強要しました。明治四年(1871)、「散髪脱刀令」出し、男性はそれまでの髷を切り、いわゆる「ざんぎり頭」になりました。華族や士族などは洋服を着るようになり、靴や帽子も流行しました。牛鍋店、パン屋、西洋料理店が増え、ビールや紙巻タバコが売られるようになりました。上流階級の生活に椅子やテーブルが使われるようになります。もっともこうした変化はあくまで都市部だけでした。
明治五年(1872)に銀座一帯が火事で焼失した後、政府は新しい都市計画を作り煉瓦造りの洋風の街としました。さらにガス灯が設置され、乗合馬車が走る街となりました。三代目歌川広重うたがわひろしげがその頃の銀座の風景を描いた「東京開化名勝京橋石造銀座通り両側煉化石商家盛栄之図」を見ると、江戸時代からわずか十年未満の町並みとはとても思えません。もっともこの変化は東京の一部だけで、都市部が劇的に変わるのはもう少し後のことです(農村部の変化はもっと後になる)
同年、長らく浸かってきた旧暦を廃し、新たに太陽暦が採用され、一年を三百六十五日とし、四年ごとに閏年をおくという現在の暦となりました(明治五年【1842】十二月三日を新暦の明治六年【1873】一月一日にすることが決められた)
これらのことが戊辰戦争終結後の十年以内に行なわれたというのは驚愕の一語です。しかも版籍奉還や廃藩置県を行ないながら、です。こうしてあらためて歴史を俯瞰ふかんしてみても、容易に信じがたいものがあります。近代において、これほど急激に近代化を成し遂げた国はないでしょう。第二次世界大戦後に独立を果した東南アジア諸国において、日本の明治維新が研究材料となってきたことも頷けます。
2025/12/02
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