~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
五箇条の御誓文
戊辰戦争を戦っている明治元年(1868)三月に、明治政府は「五箇条の御誓文」を発表しました。これは明治天皇が天地神明に誓約する形で、公家や大名たちに示した明治政府の基本方針ですが、まず注目すべきは最初の二条です。
「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」
「上下心ヲ一ニシテさかんニ経綸ヲ行フベシ」
これはわかりやすくいえば、「広く人材を集めて会議を開いて議論を行ない、人々の意見を聞いて物事を決めよう」「身分の上の者も下の者も心を一つにして国を治めていこう」ということです。ここには独裁的な姿勢は皆無です。まさに近代的民主主義の精神に満ち溢れています。
それだけでも十分な驚きですが、私は、最初の二条と、千二百年以上前に聖徳太子しょうとくたいしが作ったといわれる「十七条憲法」との類似性に唸らされます。すなわち「和を以て貴しと為し」「上やわらぎ下むつびて」というくだりです。日本は古来、専制君主制ではなく、政治は皆で行なっていくのが理想と考えてきた国なのです。
ただ、明治政府の重鎮たちの多くが近代的民主主義の精神を持っていたかは疑問です。これはある意味、仕方のないことです。彼らの多くは数年前までは藩主に仕える武士であり、幕府から扶持を貰って生活していた公家だったのですから。何より重要なことは、明治政府が「五箇条の御誓文」を理想とし、これを国是としたということです。
日本大改造
明治政府は戊辰戦争を戦いながら、一方で様々な改革を急速に進めていました。
まず明治元年(1868)七月十七日、明治天皇は「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発し、江戸は東京となりました。
東京という名前を誰が決めたのかわかりませんが、この改称には徳川政権の名残をすべて消し去ろうという意図がうかがえます。町や土地の名前には謂れがあえいます。それをわざと消し去り、別称に改めるという行為を、私は良しとしません、江戸は十七世紀の頃からロンドンやパリに匹敵する世界的な都市であったのに、現在、この由緒ある名前が使われていないことは残念というはかありません。
翌明治二年(1869)、政府は「版籍奉還」を実施します。これは、全国に三百近くあったすべての藩が、領地と領民を朝廷に返上するというものでした。旧藩主は「知事事」となり、従来の石高の一割が家禄としして与えられました。同時に全員が華族(貴族)となりました。
版籍奉還が終ると、政府は次に「廃藩置県」を行ないました。これは薩長の一部の高官による、ある意味クーデターのようなもので、藩を一気に廃して府や県にして、同時に知藩事も罷免し、中央政府から府知事や県令を派遣するという改変でした。これによって明治政府の中央集権体制が出来上がり、政府内において薩長が大きな力を持つようになりました。
明治四年(1871)七月の最初の廃藩置県では、全国に三府(東京、大坂、京都)三百二県を設置し、十一月には三府七十二県に整理しました。ちなみに琉球国は明治四年(1871)鹿児島県に編入されましたが、明治五年(1872)に琉球藩として分離し政府の直轄地となり、さらに明治十二年(1879)に沖縄県とされました。
明治政府は版籍奉還と廃藩置県を実施するに際し、旧藩が激しく抵抗するかも知れないと恐れ、兵力を備えていましたが、それは杞憂に終わりました。ほとんどの藩が返済困難な借金を抱えており、廃藩置県によってそれが帳消しになるというこよから(政府が負債を引き継ぐことになっていた)むしろ歓迎する藩も多かったのです。
それに藩士の禄も政府が支給するということも藩主たちが廃藩置県を受け入れた大きな理由でした。あるいは戊辰戦争で政府に逆らった奥羽越列藩同盟の悲惨な状況を見ていたため、抵抗しても無駄だと考えたのかも知れません。こうして二百六十八年も日本全国に存在していた藩は一瞬になくなったのです。同時に藩主(殿様)という存在も消滅しました。
明治六年(1873)には、「廃城令」(正式名・全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)が出されました。これは明治政府の陸軍省の管轄になっていた全国の城の存廃を軍が決めるというもので、結果的に大部分の城が取り壊されました。この時、種々の理由で例外的に存続が決まった姫路城や彦根城などは、国宝になっています。
現在、江戸時代の天守閣が残っているのは全国でわずか十二です(大東亜戦争による焼失もあった)。もし廃城令」だ出されていなければ、今の日本全国に多くの天守閣が残されているはずで、それらは非常に貴重な文化財であったと同時に、どれほど素晴らしい景観であったかと思うと、まさに惜しみてあまりあることです。
廃藩置県が行なわれた明治四年(1871)十一月、政府は岩倉具視を全権大使とする使節団をアメリカとヨーロッパに送ります。この時のメンバーは伊藤博文、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)といった政府の重鎮たちでした(他に留学生なども加わり、総勢百名を超えた)。ししかもその期間は二年近くに及ぶ長いもので(帰国は明治六年【1873】九月 )、いかに政府が力をいれていたかがわかります。
まずアメリカに渡った一行はアメリカ政府の政治家や役人たちに歓待され、「これほどの歓待ぶりなら、懸案であった条約改正の交渉にも快く応じてくれるのではないか」と甘い期待を抱きました。しかしいざ交渉に入ろうとすると、まったく仕手にされず、彼らは大きなショックを受けます。明治の重鎮たちは、あらためて国際社会の厳しさを思い知らされることとなりました。
この時の使節団のメンバーのほとんどは断髪・洋装でしたが、日本の文化に誇りを持っていた岩倉具視だけはまげと和服という姿でした。しかしアメリカ留学中の息子に「未開の国と馬鹿にされる」と言われ、シカゴで断髪して洋装に改めています。これは少々残念に感じるエピソードです。
使節団の目的の一つは欧米の社会や工場を視察することでした。一行はイギリスで産業革命を成し遂げた様々な工場を見学しましたが、彼らを何より驚かせたのはビスケット工場でした。小麦粉と卵とバターから食料品が大量に生産される様子を見て、近代文明の凄さを思い知らされたのです。一方で、夜のロンドンでホームレスの集団を見た使節団は、華やかな文明には暗部もあるという感想を、メモに残しています。
余談ですが、イギリスでお金を銀行に預ければ利子がつくと聞いた一行は、大金(現在の価値で五億円ほど)を預けますが、ロンドン滞在中にその銀行が倒産して、預けた金を失ったという記録があります。もしかしたら金融に疎かったために詐欺に遭ったのかも知れません。
誕生したばかりのドイツ帝国では、鉄血宰相といわれたビスマルクに会っています。ビスマルクは一行にこう語ったと言われています。
「あなたたちは交際法の導入を議論しているようだが、弱い国がそれを導入したからといって権利は守られない。だから日本は強い国になる必要がある」
また使節団を招いての晩餐会でも次のようなスピーチをしたといいます。
「大国は自国に利益があると見れば国際法を守るが、不利となればそれを破って武力にものを言わせる」
ビスマルクの言葉は一行に大きな衝撃を与えました。国際法など、弱い国にとっては何の力のもならない、いざという時に頼りになるのは武力である、ということを、イギリスやフランスに遅れて列強の仲間入りをしたドイツの宰相に教えられたのです。
悲しいことに、これがこの時代の国際間のルールでした。おそらくこの時、使節団一行の頭の中には「富国強兵」という考えが深く刻まれたことでしょう。
2025/11/29
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