明治元年(1868)三月(新暦四月)、江戸無血開城が決まりましたが、政治機構がすんなり明治政府に移行したわけではありませんでした。まず新政府軍に対して、旗本や御家人が
彰義隊
を組織して(町人や博徒も多数加わった)上野(現在の上野公園あたり)に立て籠って歯向かいますが、これは一日で制圧されました。
また新政府は、会津藩(現在の福島県)と庄内藩(現在の山形県の一部)の討伐のために東北に軍隊を送りました。新政府は長州藩と薩摩藩から成り立っていましたが、この二藩は会津藩と庄内藩に遺恨を持っていました。長州藩は「禁門の変」(蛤御門の変)で会津藩に京都から追放された恨みがあり、薩摩藩は江戸でテロ活動をした際に庄内藩に藩邸を焼き討ちにされた恨みがあったため、両藩はこの機に乗じてそれらの仇をうとうと考えたのです。
一方、徳川家が大政奉還して江戸城を明け渡した今、会津藩と庄内藩には新政府と争う理由はありませんでした。両藩はともに新政府に対して恭順の意を示しますが、新政府はこれを却下し、仙台藩(現在の宮城県)や米沢藩(現在の山形県の一部)など東北や北越の諸藩に、会津藩と庄内藩の討伐を命じました。
しかし仙台藩と米沢藩は、同じ東北の藩として会津藩と庄内藩に同情的でした。そこで両藩は近隣の他の藩とともに、新政府に対して、両藩への寛大な措置を求める嘆願書をだします。新政府はこれを受け付けず、逆に「従わなければ、仙台藩と米沢藩も討伐する」と通達し、「松平容保の首を差し出す以外に赦しはない」といおう強硬な態度に出ました。これに怒った東北・北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して、新政府に対抗します。これはおそらく武士の意地のようなものだったのでしょう。
とはいえ、薩摩藩の庄内藩に対する恨みはそれほど深いものではありませんでした。というのはかつて薩摩が密貿易をしていた時、庄内地方から招聘した岩元源衛門いわもとげんえもんという商人のお陰で大いに潤ったということがあり(鹿児島には今も岩元が作った「山形屋」という老舗店舗がある)、庄内藩には親近感に近いようなもを持っていたと言われています。
官軍の奥羽越列藩同盟との戦いは明治元年(1868)の五月に始まりました。東北・北越の諸藩は、激しく抵抗しますが、数と装備に優る政府軍の前に次々に降伏し、九月に会津藩と庄内藩が降伏して、東北での戦いは終結します。これにより新政府軍は東北一帯を制圧しました。
明治政府による奥羽越列藩同盟討伐は、一分の正義もないものでした。徹底抗戦を宣言した相手ならともかく、恭順の意を示した相手を討伐する理由などありません。
敢えて言えば、長州による報復の私闘ともいえるものでした。その証拠に「禁門の変」で恨みを抱いていた会津藩に対しては、藩士らを不毛の地であった青森の斗南となみに移封するなど、非常に過酷な処罰を与えています(薩摩藩の西郷隆盛などはむしろ会津藩に同情的だった)。
新政府軍に敢然と反旗を翻したのは旧幕府の海軍でした。海軍副総裁榎本武揚えのもとたけあきは、江戸城明け渡しの後、新政府に軍艦を引き渡すことを拒否し、同年八月、八隻の軍艦に彰義隊(旧幕府の旗本たち)や仙台藩士の敗残兵、元新撰組隊士ら約三千人を乗せて、蝦夷地に向かいました。そして箱館(函館)を占領すると、「箱館政権」(俗に蝦夷共和国と呼ばれる)樹立を宣言しました。イギリスとフランスはこの仮政府を認め、新政府軍と仮政府の戦いには中立の立場を取る旨を榎本に告げています。
翌明治二年(1869)五月(新暦六月)、新政府軍は七千の軍勢で箱館政権に総攻撃をかけました(箱館戦争)。榎本らは奮戦しますが、同月には降伏します。この箱館戦争の終結をもって、明治新政府は日本全土を制圧しました。
鳥羽・伏見の戦いから、箱館戦争までの一連の戦いは「戊辰戦争」と呼ばれています(明治元年の干支が戊辰であったことから命名された)。 |
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