~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
徳川慶喜という男
江戸幕府最後の将軍となった慶喜は、若い頃からその総明さで知られていましたが、幕末の一連の出来事を巡る行動を見る限り、保身を第一とし、勇気と決断力に欠けた男に思えます。
家茂が急死した後、将軍職を固辞したのも、おそらく火中の栗を拾いたくなかったからでしょうし、大政奉還をあっさり受け入れたかと思えば、その後、家臣たちに押されて「討薩の表」を出してみたり、鳥羽・伏見の戦いでも、部下には「死を決して戦うべし」と言いながら、不利な戦況になると、兵を残して江戸に逃げ帰ったりと、行動にまるで一貫性がありません。そして東征軍がやってくるとなった時には、徹底抗戦を主張する多くの幕臣の意見を退けて、勝の意見を採用し新政府に恭順の意を示しました。勝の非戦論は日本の将来を見据えたものでしたが、慶喜の場合は単なる怯懦であったろうと私は見ています。
慶喜が徹底抗戦しなかったもう一つの理由は、朝敵となることを恐れていたからとも言われています。慶喜の実父は御三家の一つ水戸徳川家当主だった斉昭なりあきですが、水戸家は徳川御三家でありながら、尊皇思想の非常に強い藩でした。それゆえに天皇の意に逆らって開国した井伊直弼いいなおすけは水戸藩士らの一層の怒りを買ったともいえます。
慶喜が一橋家に養子に行く前、二十歳の時に、父の斉昭に言われたとされる次の言葉はつとに有名です。
もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府にそむくとも、朝廷に向かいて弓を引くことあるべからず。これは義公ぎこう以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」(『昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談』)
これは慶喜が晩年に語ったものですが、斉昭は水戸家の家訓として、もし徳川本家と朝廷が争うことになれば朝廷と戦ってはならないと教えたというのです(義公とは水戸光圀みつくにのこと)。また水戸家七代藩主の徳川治紀はるとしの言行録である『武公遺事』にも同様のことが書かれています。
徳川幕府の最後の将軍がこのような家訓を持った家から出たというのは、どこか運命的なものを感じさせます。その意味では、大政奉還と江戸無血開城は歴史の必然性であったと言えるのかも知れません。
小栗忠順の死
東征軍に対して徹底抗戦を唱えた一人に小栗忠順がいましたが、その意見は退けられ、彼は罷免されて、上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町横田)に蟄居します。
後に、小栗が考案していた遊撃策戦を知った大村益次郎(長州藩の兵学者で、戊辰戦争における官軍の実質的な司令官)は「その策が実行に移されていたならば、今頃は我々の首はなかったであろう」と語っています。その時点では旧幕府軍は、小栗の近代化による強大な軍事力を持っていたため(鳥羽・伏見の戦いの旧幕府軍とは全然違う)もし戦えば旧幕府軍が勝利した可能性が高かったと言われているのです。そうなれば幕末の歴史は大きく変わっていたでしょうが、だからと言って徳川幕府が再建されたとも思えません。おそらく明治新政府に薩長がいないというだけのことではなかったでしょうか。少なくとも近代化を阻害することはなかったと思います。
小栗家の中間ちゅうげんで、後に小栗忠順の推薦によって大番頭となった三野村利左衛門みのむらりざえもんは、このままでは小栗の身が危ないと察し、占領箱を送ってアメリカ亡命を勧めますが、小栗はこれを丁重にに断わりました。
ちなみに江戸時代の豪商の多くは明治になって没落しましたが、三井は維新以降も生き残ったばかりか、日本最大の財閥となりましたが、それは小栗の薫陶を受けた三野村左左衛門の力が大きかったと言われています。
明治元年(1868)、新政府軍は無抵抗の小栗を捕縛し、翌日、裁判もせずに処刑しました。享年四十一でした。新政府軍は旧幕臣には寛容でしたが(勝義邦、三大鳥圭介おおとりけいすけ榎本武揚えのもとたてあきらは政府高官に取り立てられている)、なぜ小栗だけを赦免も行なわれずに処刑したのかは不明のままです。新政府には後に様々な罪状を挙げていますが、いずれも事実ではありません。もしかしたら、この後に起るかも知れない旧幕府軍との戦い(実際に起った)において、小栗が旧幕府軍の軍師となることを恐れたのかも知れません。
いずれにしても小栗忠順の死は、実に惜しいことだったと言わざるを得ません。もし幕末を生き延び、明治政府の重鎮になっていれば、どれほど日本の近代化に貢献できたか知れません。
残念なことに、小栗忠順は明治から戦前の時代は「逆賊」と言われ、その功績が語られることはほとんどありませんでした(大隈重信や東郷平八郎の賞讃は」例外)
また戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から「横須賀軍港を作った軍国主義者」と見做されました(群馬県で、郷土の歴史などを綴った「上毛かるた)を作る時、GHQは小栗上野介の名前を外すように命令している)。そうした評価のため、彼の名は教科書などで語られることはありませんが、幕末史において決して忘れてはならない人物の一人です。司馬遼太郎は『「明治」という国家』の中で、小栗を「明治の父」と書いています。 
2025/11/26
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