江戸幕府最後の将軍となった慶喜は、若い頃からその総明さで知られていましたが、幕末の一連の出来事を巡る行動を見る限り、保身を第一とし、勇気と決断力に欠けた男に思えます。
家茂が急死した後、将軍職を固辞したのも、おそらく火中の栗を拾いたくなかったからでしょうし、大政奉還をあっさり受け入れたかと思えば、その後、家臣たちに押されて「討薩の表」を出してみたり、鳥羽・伏見の戦いでも、部下には「死を決して戦うべし」と言いながら、不利な戦況になると、兵を残して江戸に逃げ帰ったりと、行動にまるで一貫性がありません。そして東征軍がやってくるとなった時には、徹底抗戦を主張する多くの幕臣の意見を退けて、勝の意見を採用し新政府に恭順の意を示しました。勝の非戦論は日本の将来を見据えたものでしたが、慶喜の場合は単なる怯懦であったろうと私は見ています。
慶喜が徹底抗戦しなかったもう一つの理由は、朝敵となることを恐れていたからとも言われています。慶喜の実父は御三家の一つ水戸徳川家当主だった斉昭ですが、水戸家は徳川御三家でありながら、尊皇思想の非常に強い藩でした。それゆえに天皇の意に逆らって開国した井伊直弼いいなおすけは水戸藩士らの一層の怒りを買ったともいえます。
慶喜が一橋家に養子に行く前、二十歳の時に、父の斉昭に言われたとされる次の言葉はつとに有名です。
もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反そむくとも、朝廷に向かいて弓を引くことあるべからず。これは義公ぎこう以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」(『昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談』)
これは慶喜が晩年に語ったものですが、斉昭は水戸家の家訓として、もし徳川本家と朝廷が争うことになれば朝廷と戦ってはならないと教えたというのです(義公とは水戸光圀みつくにのこと)。また水戸家七代藩主の徳川治紀はるとしの言行録である『武公遺事』にも同様のことが書かれています。
徳川幕府の最後の将軍がこのような家訓を持った家から出たというのは、どこか運命的なものを感じさせます。その意味では、大政奉還と江戸無血開城は歴史の必然性であったと言えるのかも知れません。 |
|