薩摩側は慶喜との対決の前に朝議を開き、「慶喜の武将上洛を止める」という決定を取り付けました。これが後に大きな武器となります。
明治元年(1868)一月三日(新暦一月二十七日)、淀城を出た旧幕府軍と、薩摩・長州も新政府軍が伏見市街で衝突しました。これは後に「鳥羽・伏見の戦い」と呼ばれます。
西洋の最新式武器を装備し、数でも圧倒していた旧幕府軍でしたが、指揮官が無能だったために、同じく西洋の最新式武器を装備した新政府軍を前に苦戦を強いられまました。ただ、在京していた多くの藩は、この戦いを旧幕府軍と薩長の私闘と見做していたため戦いには参加せず、静観していました。
しかし二日目、新政府軍が、朝敵を討つ時の旗印である「錦の御旗」(錦旗)を掲げると、多くの藩が「朝敵となることを恐れ、次々に新政府軍に加わりました。それどころか、淀藩や津藩のように、旧幕府軍から新政府軍に寝返る藩も出てきました。
平安の終わりに平家が実権を握って以来、約七百年間も政権から離れていた(途中、建武の親政があるが)「天皇」でしたが、その象徴でである「錦の御旗」が揚がった途端、臨戦態勢にあった旧幕府軍の武士たちを一瞬のうちに、慄かせたのです。
これが日本における天皇の「力」と言えますが、その「力」とは「畏れ」ではなかったかと私は考えます。
旧幕府軍は態勢を立て直すためにいったん淀城に入ろうとしましたが淀藩から締め出され、大坂城まで退くはめになりました。
それでも会津藩と桑名藩の士気は衰えてはいませんでし。慶喜が出陣すれば挽回は十分可能でしたが、慶喜は秘かに愛妾を連れて大坂城を脱出し江戸へ逃げ帰ります。
「たとえ千騎馬が一騎になっても退くべからず、皆、死を決して戦うべし」と兵士を鼓舞していた将軍自らが戦場から離脱したのです。これにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して江戸や自国へと帰還し、戦いは新政府軍の圧勝という形で終わりました。しかし欧米列強は「局外中立」を宣言し、薩摩藩を中心とする新政府を日本政府として認めるという立場には立ちませんでした。むしろこの時点では種々の条約を交した旧幕府の徳川政権を認めるという立場でした。ただ、国内的には、徳川家の威信は地に落ち、もはや政権維持能力は失われたと見做されました。
ところで「明治」という元号は慶応四年(1868)九月八日(新暦十月二十三日)建元されたものですが、この時、一月一日(新暦一月二十五日)に遡さかのぼって明治元年とすることが定められました。したがって本書では、慶応四年ではなく明治元年と書いています。なお、この時に一世一元制(天皇の在位中には元号を変えない制度)も採用され、今日に至っています。 |
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