~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
鳥羽・伏見の戦い
薩摩側は慶喜との対決の前に朝議を開き、「慶喜の武将上洛を止める」という決定を取り付けました。これが後に大きな武器となります。
明治元年(1868)一月三日(新暦一月二十七日)、淀城を出た旧幕府軍と、薩摩・長州も新政府軍が伏見市街で衝突しました。これは後に「鳥羽・伏見の戦い」と呼ばれます。
西洋の最新式武器を装備し、数でも圧倒していた旧幕府軍でしたが、指揮官が無能だったために、同じく西洋の最新式武器を装備した新政府軍を前に苦戦を強いられまました。ただ、在京していた多くの藩は、この戦いを旧幕府軍と薩長の私闘と見做していたため戦いには参加せず、静観していました。
しかし二日目、新政府軍が、朝敵を討つ時の旗印である「錦の御旗」(錦旗)を掲げると、多くの藩が「朝敵となることを恐れ、次々に新政府軍に加わりました。それどころか、淀藩や津藩のように、旧幕府軍から新政府軍に寝返る藩も出てきました。
平安の終わりに平家が実権を握って以来、約七百年間も政権から離れていた(途中、建武の親政があるが)「天皇」でしたが、その象徴でである「錦の御旗」が揚がった途端、臨戦態勢にあった旧幕府軍の武士たちを一瞬のうちに、おののかせたのです。
これが日本における天皇の「力」と言えますが、その「力」とは「畏れ」ではなかったかと私は考えます。
旧幕府軍は態勢を立て直すためにいったん淀城に入ろうとしましたが淀藩から締め出され、大坂城まで退くはめになりました。
それでも会津藩と桑名藩の士気は衰えてはいませんでし。慶喜が出陣すれば挽回は十分可能でしたが、慶喜は秘かに愛妾を連れて大坂城を脱出し江戸へ逃げ帰ります。
「たとえ千騎馬が一騎になっても退くべからず、皆、死を決して戦うべし」と兵士を鼓舞していた将軍自らが戦場から離脱したのです。これにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して江戸や自国へと帰還し、戦いは新政府軍の圧勝という形で終わりました。しかし欧米列強は「局外中立」を宣言し、薩摩藩を中心とする新政府を日本政府として認めるという立場には立ちませんでした。むしろこの時点では種々の条約を交した旧幕府の徳川政権を認めるという立場でした。ただ、国内的には、徳川家の威信は地に落ち、もはや政権維持能力は失われたと見做されました。
ところで「明治」という元号は慶応四年(1868)九月八日(新暦十月二十三日)建元されたものですが、この時、一月一日(新暦一月二十五日)さかのぼって明治元年とすることが定められました。したがって本書では、慶応四年ではなく明治元年と書いています。なお、この時に一世一元制(天皇の在位中には元号を変えない制度)も採用され、今日に至っています。
江戸城無血開城
薩摩藩と長州藩を中心とする新政府は、徳川慶喜追討令を出し、攻撃目標を江戸と定め、東征軍を組織しました。
この時、西郷隆盛は東征軍の先遣隊として、 相楽総三 さがらそうぞう が結成した赤報隊を派遣します。相楽は西郷の命令で江戸でテロ事件を画策した尊王攘夷派の志士でした。赤報隊は進撃の途中、「旧幕府領の年貢を半分にする」という約束を掲げて、農民たちの支持を取り付けていきましたが、これは相楽が新政府に進言して認められた政策でした。しかしその後、新政府は財政逼迫のためこの方針を撤回し、相楽を偽官軍として処刑しました。この一件は新政府軍の汚い性格が露骨に現れたものと言えるでしょう。
東征軍に対して、旧幕府側は恭順か徹底抗戦かで意見が割れますが、慶喜は恭順を勧める軍艦奉行の勝義邦の意見を取り入れます。勝は江戸が戦場となって無辜むこの民が何万人も死ぬことは避けたいと考えていました。また旧幕府軍と新政府軍が総力戦となることで、どちらが勝にせよ、「日本」の国力が大いに損なわれることを恐れてもいました。前述のように内乱によって疲弊した後に欧米列強の植民地となった東南アジア諸国の轍は踏みたくないと考えていたのです。
しかし東征軍の実質的な総司令官であった西郷隆盛は、日頃から「戦好き」を公言し、その上、目的の為なら手段を選ばない男でもありました。手下として使った相楽総三でさえ、罪をかぶせて処刑する残忍さも持ち併せていました。そんな西郷はすでに江戸城を包囲し、総攻撃の日を決め、「江戸中を日の海にしても慶喜の首を取る」と息巻いていたといいます。
慶喜から全権を任された勝は、総攻撃の二日前、薩摩藩邸に乗り込み、西郷と面談します。そして驚くべきことに、勝は攻撃予定日の前日、ついに西郷を説得し、戦いを回避することに成功しました。時に、明治元年(1838)三月十四日(新暦四月六日)のことでした。
「江戸城無血開城」として知られるこの事件は、日本史に燦然と輝く奇跡のような美しい出来事です。私は、「これぞ、日本」だと思います。恨みや怒りを超えて、日本の未来を見ようという両者の英断があったればこそのことだったからです。
ただし、江戸無血開城を成し遂げられたのは勝の力量によるところが代だったと私は見ています。勝でなければ出来なかったことかも知れません。西郷は勝に会う前に、イギリス公使のハリー・パークスに説得されて攻撃をやめることを考えていたという説がありますが、私はこの説には与しません。むしろ勝に説得された西郷が、血気にはやる東征軍の幹部クラスを納得させるために、パークスの名前を出したのではないかと考えられます。
2025/11/24
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