~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
王政復古の大号令
ところで、偽勅旨が出た翌日に慶喜が大政奉還をしたというのは、あまりにもタイミングが良すぎます。実は慶喜は十月十三日に、大政奉還する旨を諸藩に伝えていました。討幕を目論む薩摩藩と長州藩にしてみれば、慶喜にそれを上表されると、討幕の大義名分を失うために急遽、密勅っを こしら えたと思われます。
慶喜が大政奉還を上表したのは、薩長との戦いを避けるためでしたが、彼にはもう一つの目論見がありました。おそらく新政権は、朝廷や慶喜を含めた雄藩の藩主たちによる合議制の形を採るであろうと見ていたのです。ところが朝廷や雄藩の藩主らには国政を運営した経験はありません。となれば、外国との交渉を含め、実質的に日本の政治を行なってきた徳川家の力は無視できず、新政権での自分の発言力は大きくなると考えたのです。事実、朝廷は慶喜が将軍辞任を申し出ても、これを認めず、そのまま政治を委ねています。また慶喜は弁論が巧みで、雄藩の藩主とのやりとりでも常に周囲を圧倒していました。
そこで岩倉具視を代表とする討幕派の公家や薩摩藩らは、慶応三年(1867)十二月九日(新暦一八六八年一月三日)に慶喜派の公家たちを締め出し(宮中クデター)、「王政復古の大号令」を発しました。これは江戸幕府を廃絶し、同時に摂政と関白を廃止し三職(総裁、 議定 ぎじょう 、参与)を設置するという、新政府樹立の宣言です。摂政を廃したのは、 二条斉敬 にじょうなりゆき 摂政が親幕賦であったからかも知れません。
同じ日、新たに設置された三職 有栖川宮熾仁 ありすがわのみやたるひと 親王、 中山忠能 なかやまただやす 、岩倉具視、大久保利通、松平慶永、山内豊信、後藤象二郎、徳川 慶勝 よしかつ )の間で小御所会議が行なわれました。この席には慶喜は呼ばれませんでした。会議では、徳川慶喜の「辞官・納地」(内大臣の辞官と領地の返還)が決定しました。
最初は公儀政体派(徳川家も諸侯の一人として会議に参加するという考えの派閥)の山内豊信(前土佐藩主)、松平慶永(前越前藩主)、徳川慶勝(元尾張藩主)は慶喜の「辞官・納地」に断固反対していましたが、それを知った討幕派の西郷隆盛(薩摩藩士で当日は御所の警備をしていた)が三人の暗殺を示唆したところから、会議の空気が変わったといいます。この時、西郷が「短刀一つあれば済む」と言ったという有名な逸話がありますが、事実かどうかは不明です。ただ、テロをほのめかすようなことはあったようです。山内豊信らは暗殺を恐れたのか、自説を引っ込めました。
京都の二条城で会議の決定を聞いた会津藩と桑名藩の藩士は激怒しますが、慶喜は彼らを抑えて、新政府に恭順の意を示し、大坂城に退きました。
そんな慶喜に対し、諸藩の間で同情論が起こり、いったんは慶喜の「辞官・納地」に賛成した山内豊信や徳川慶勝らも再び意見を変え、新政府内でも慶喜擁護派が強くなりました。その月の終わりには慶喜の「辞官・納地」はうやむやになり、慶喜が三職の一つである議定に内定しました。この間、慶喜は大坂城にいて、城内には徳川家に忠誠を誓う会津藩と桑名藩の藩士たちが詰めていました。
何としても慶喜を廃したい西郷隆盛は、幕府を挑発するために大勢の浪人やごろつきを雇い、江戸市中でテロ活動を行なわせました。彼らは次々と商家を襲い、金を強奪しただけでなく、殺人、強姦、放火などを行ないました。「薩摩御用盗」と恐れられた彼らは、薩摩藩邸を根城にしていたため、与力よりきでは手が出ませんでした。しかし庄内藩巡邏兵屯所が砲撃されたことと、江戸城西の丸が放火されたことで、幕府はついに討伐をを決定し、庄内藩士らが薩摩藩邸を砲撃して、浪人を多数捕縛しました。
これら一連の薩摩藩の狼藉を大坂城で訊いた幕臣から「王政復古の大号令以来、薩摩の振舞は、朝廷の真意とは考えられず、薩摩の陰謀である」として、明治元年(1868)一月一日(新暦一月二十五日)、「討薩の表」を発しました。しかし、これこそ西郷が待っていたことせした。
翌日、会津藩と桑名藩の藩士が大坂城から京都の淀城(親幕府の淀藩の城)に入り、事態は一気に緊迫します。
新政府の議定に内定し、政府内で自分を擁護する勢力が強くいなっていることを感じていた慶喜は、ここで一気に薩摩を潰しておきたいと考えたのでしょう。薩摩藩中心の新政府軍約五千人に対し、旧幕府軍は約一万五千人という兵力差も慶喜を強気にさせていたのかも知れません。
2025/11/23
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