時代が大きく変わって行くのを感じていたのは武士だけではありませんでした。民衆もまた不穏な空気を感じ取っていました。
慶応二年(1866)六月に武蔵国
上名栗村
で起こった「武州世直し一揆」がきっかけとなり、全国各地で「不当な支配や収奪を行う」地主や豪商に対する、農民や民衆による打ちこわしが頻繁に起こりました。農村だけでなく江戸や大坂でも大規模な打ちこわしがありました。これらはまさに世情不安の表れ以外の何者でもありませんでした。
翌年、豊作により世直し一揆の波が鎮まると、今度は民衆の間で「ええじゃないか」が大流行します。これは慶応三年(1867)八月から十二月にかけて近畿、四国、東海地方などで派生した、集団で町々を巡って躍りまくるという不思議な社会現象です。三河国
御油宿
ごゆしゅく
において、秋葉神社の御札が空から降って来たということで、民衆が踊りまくったのが最初と言われています。その後、東海道の宿場町を中心に、この不思議な踊りは頻発しました。「ええじゃないか」という囃し言葉とともに、男装した女性や女装した男性らが何日も踊り狂うのです。時には六夜七日にわたる乱痴気騒ぎもありました。
おそらく動乱の世にあって鬱積した民衆の不満が、踊りという形で現れた者と思われますが、中には「日本国の世直りはええじゃないか」という囃し言葉もあり、根底には「世直し」に対する渇望のようなものがあったのかも知れません。
この「ええじゃないか」は実は討幕を試みた一派が人為的に起こしたものではないかという説があります。というのも「ええじゃないか」が流行した時期は、薩摩藩や長州藩の討幕派が、前述の「討幕の密勅」降下を画策していた時だからです。それに薩摩や長州では「ええじゃないか」は起こっていません。また各地の囃し言葉の中には「長州」という言葉が出て来るものもいくつかあります。そして「討幕の密勅」が出た途端「ええじゃないか」は突然やみます。
人為的に「ええじゃないか」を起こしたという説は非常に魅力的ではありますが、私はこれには懐疑的です。「討幕の密勅」の計画時期との一致も偶然だと思います。とはいえ、誰かが「空から御札が舞い降りる」とふれ回り、民衆を洗脳状態にした工作だった可能性は否定出来ません。マスメディアがない時代、そうした噂話が町々に伝染していく中、何人かの男たちが、町や通りに御札を撒きながら「ええじゃないか」と躍りだせば、容易に民衆に広がったことでしょう。もし、そこまで考えた者がいたとすれば、恐ろしいまでに頭のいい人物だったことは間違いありません。
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