弱体化する幕府に援助を申し出て来たのはフランスでした。その理由は、イギリスが反幕府路線を取る薩摩や長州と接近したことにあります。両国は「日本を開国させるという目的」では共通していましたが、植民地獲得競争では常に対立していました。日本での権利をめぐっても水面下で争っていたのです。おそらく両国とも、今後の日本の実権を握るのが幕府か、薩摩・長州かを見ていたのでしょうが、フランスは幕府側についたというわけです。
前述のようにフランスは幕府の横須賀鉄工所の建設を援助したり、横浜仏蘭西語伝習所を作って幕臣の教育をしたりして、従来、幕府を支援していました。
その頃、長州藩が軍備を拡充していると知った幕府は、長州藩に対して十万石の削封や藩主の毛利敬親の隠居などの処分を通達しますが、回答期限を過ぎても返答がないため、慶応二年(1866)六月、諸藩に命じて十五万人という大軍で四方面から長州に総攻撃をかけます(長州は「四境戦戦争」と呼んでいる)。
これは幕府による二度目の長州征討で、長州藩の度重なる反抗に、幕府としては「今回は許さん」という気持ちだったのでしょう。
迎え撃つ長州軍はわずか三千五百人。しかし長州軍はイギリスから購入した最新式の武器と洋式歩兵部隊の活躍、それに、司令官、村田六蔵(大村益次郎。宇和島藩で前原嘉蔵に蒸気機関制作のアドバイスをした人物) や高杉尾晋作の優れた戦略により、各所で兵力において上回る幕府軍を圧倒します。
長州征討の最中の七月、大坂城で指揮を執っていた将軍家茂が亡くなりました。
二十歳になったばかりでした。幕府は将軍の死を秘して戦いを継続しますが、徳川家を継いだ一橋慶喜はすぐに形勢挽回は無理と判断し、勝義邦を遣わして休戦します。
戦いは幕府の完敗であり、幕府の権威は完全に失墜しました。全国を支配しているはずの幕府が、たった一つの外様とざまの藩に敗れ去ったのです。これを見た朝廷も全国の藩も徳川政権にはもはや何の力もないと悟りました。 |
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