~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
第二次長州征討
弱体化する幕府に援助を申し出て来たのはフランスでした。その理由は、イギリスが反幕府路線を取る薩摩や長州と接近したことにあります。両国は「日本を開国させるという目的」では共通していましたが、植民地獲得競争では常に対立していました。日本での権利をめぐっても水面下で争っていたのです。おそらく両国とも、今後の日本の実権を握るのが幕府か、薩摩・長州かを見ていたのでしょうが、フランスは幕府側についたというわけです。
前述のようにフランスは幕府の横須賀鉄工所の建設を援助したり、横浜仏蘭西語伝習所を作って幕臣の教育をしたりして、従来、幕府を支援していました。
その頃、長州藩が軍備を拡充していると知った幕府は、長州藩に対して十万石の削封や藩主の毛利敬親もうりたかちかの隠居などの処分を通達しますが、回答期限を過ぎても返答がないため、慶応二年(1866)六月、諸藩に命じて十五万人という大軍で四方面から長州に総攻撃をかけます(長州は「四境戦戦争」と呼んでいる)
これは幕府による二度目の長州征討で、長州藩の度重なる反抗に、幕府としては「今回は許さん」という気持ちだったのでしょう。
迎え撃つ長州軍はわずか三千五百人。しかし長州軍はイギリスから購入した最新式の武器と洋式歩兵部隊の活躍、それに、司令官、村田六蔵(大村益次郎。宇和島藩で前原嘉蔵に蒸気機関制作のアドバイスをした人物) や高杉尾晋作の優れた戦略により、各所で兵力において上回る幕府軍を圧倒します。
長州征討の最中の七月、大坂城で指揮を執っていた将軍家茂が亡くなりました。
二十歳になったばかりでした。幕府は将軍の死を秘して戦いを継続しますが、徳川家を継いだ一橋慶喜はすぐに形勢挽回は無理と判断し、勝義邦を遣わして休戦します。
戦いは幕府の完敗であり、幕府の権威は完全に失墜しました。全国を支配しているはずの幕府が、たった一つの外様とざまの藩に敗れ去ったのです。これを見た朝廷も全国の藩も徳川政権にはもはや何の力もないと悟りました。
討幕の密勅
長州征討の最中に急死した将軍の家茂には子供がなかったため、禁裏守衛総督の一橋慶喜が将軍に推されました。ところ、慶喜は徳川家は継いだものの将軍職は辞退します。長州征討で敗れた後、多くの藩が離反していく中、幕府の将軍になるのは荷が重いと考えたためだといわれています。慶喜は総明ではありましたが、そういう損得に敏感な人物でした。しかしフランス軍の援助を受けて軍政改革を行なった後、慶応二年十二月五日(新暦1867年一月十日)、二十九歳で徳川十五代将軍の座に就きます。
その二十日後、攘夷論者でがあったが公武合体派で親幕府でもあった孝明天皇が三十五歳の若さで急死します。これにより幕府は大きな後ろ盾を失い、朝廷では討幕派が台頭していきます。こうした流れから孝明天皇の死は討幕派勢力による暗殺ではないかという説が根強くあります。現代でも「孝明天皇暗殺説」を有力視する少なくなく、明治天皇の玄孫で作家の竹田恒泰氏もその一人です。
孝明天皇に代わって第百二十二代天皇になったのは、皇子の明治天皇でしたが、皇位に就いた時は弱冠十四歳で、実際の政治は側近が行ないました。
翌年五月、京都において、「四候会議が開かれました。これは将軍の徳川慶喜と島津久光(薩摩国父・藩主の父) 山内豊信 やまうちとよしげ ( 容堂 ようどう ・前土佐藩主) 松平慶永 まつだいらよしなが (前越前藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)の四つの雄藩の指導者による国政会議です。しかし、慶喜と久光が長州の処分について真っ向から対立し、会議(全八回)は結局、慶喜の主導で進められたため、不満を持った薩摩藩が武力による討幕に本格的に舵を切ったと言われています。
一方、長州藩と薩摩藩を結び付けた坂本龍馬は武力による討幕に反対でした(実は討幕派であったとの説もあり)。それは龍馬の師匠である勝義邦の考え方でありました。勝は軍艦奉行という幕臣でありながら、徳川家では日本は持ちこたえられないと考えていたのです。そこで幕府が政権を朝廷に譲り、国政は徳川家と雄藩による合議制によって行なうことを目論んでいました。
勝や龍馬らが武力討幕に反対していたのは、それによって内戦に陥り、日本全体が疲弊してしまうことを恐れたからでした。東南アジア各地で西洋の干渉によって内乱が生じ、地域全体が弱体化した時にあっさりと植民地化された事実を知っていたのです。
同年六月、龍馬は長崎から京都へ向かう船の中で、土佐藩の実力者である後藤象二郎に、自らが考えた新しい国家体制論を書いたものを渡しました。これは「船中八策」と呼ばれるもので、「大政奉還」など近代的な思想が盛り込まれていました。大政奉還とは、幕府が天皇に政権を返上するという意味です。後藤から「船中八策」を見せられた前藩主の山内豊信は、大政奉還に同意し、それを建白書として慶喜に提出しました。
薩摩藩もそれに同意したものの、その本音は大政奉還にはなく、あくまで武力による討幕でした。
薩摩藩の大久保利通おおくぼ「としみちは、公家の岩倉具視いわくらともみと組んで、天皇に「討幕の密勅」を出させることに成功します。それは「幕府の最高責任者たる徳川慶喜を討て」という明治天皇の勅書で、薩摩藩に出されたのが慶応三年(1867)十月十三日(新暦十一月八日)、長州藩に出されたのが十月十四(新暦十一月九日)です。同時に「会津藩の松平容保かたもり、桑名藩の松平定敬さだあき(容保の弟)誅戮ちゅうりく(罪ある者を殺すこと)せよ」という勅書も出されたいました。会津藩と桑名藩は徹底した佐幕派で、薩長は以前から「橋会桑はしかいくわく(橋は一橋慶喜のこと)と呼び、憎んでいました。
これらの勅書は天皇の直筆ではなく、本来あるべき勅旨伝宣の捧者三人の花押かおうもないなど不審な点が多々あり、おそらく作り物でしょう。薩摩藩と長州藩は偽勅書をこしらえてまで、徳川慶喜、松平容保、松平定敬を亡き者にしたかったのです。
ところが薩長にとって思いがけないことが起こります。慶応三年(1867)十月十四日(新暦十一月九日)に徳川慶喜が大政奉還をすると上表(天皇に対して書を奉ること)したのです。つまり、この日を以て、二百六十五年続いた江戸幕府の統治が突然終りを告げました。黒船が来て、わずか十四年後のことでした。これにより薩摩と長州は大義名分を失いました(事実、討幕の中断を命ずる勅書が出される)
2025/11/20
Next