水野忠德も日本史で語られることは多くなりませんが、日本にとって忘れてはならない重要人物です。江戸幕府の旗本であった忠徳は、長崎奉行時代に幕府海軍創設に奔走し、外国奉行時代は安政二朱銀を発行して金貨の海外流出を防ごうとするなど、日本を外国から守るために尽力した有能な官吏ですが、彼の最大の功績は小笠原諸島を守ったことです。
江戸幕府は寛文かんぶん一〇年(1670)には小笠原諸島の存在と位置も把握していましたが、江戸から一〇〇〇キロも離れている同諸島を管理することは出来ず、長らく無人のまま放置し、国際的にその帰属も明確ではありませんでした。ところが十九世紀以降、同諸島に外国の捕鯨船がたびたび寄港するようになり、文政一〇年(1827)に難破したイギリスの捕鯨船の乗る組員二人が住みつき(同島で初めての定住者)、三年後の文政一三年(1830)には、アメリカ人ら五人がハワイ系の人々二十数人とともに入植しました。
一八五〇年代には、ペリーが寄港してアメリカ人住民の一人を小笠原の植民地代表に任命しています。同じ頃、イギリスが諸島の領有権を主張し、両国は領有権で衝突します。この時、小笠原諸島の領有権確保のために現地に赴いたのが水野忠徳でした。
文久元年(1861)、幕府の軍艦「咸臨丸かんりんまる」で小笠原諸島に上陸した四十六歳の忠德は、島々の測量等の調査を行なうと、欧米系の島民に対して、彼らの保護を約束して日本の領土であることを承認させます。一方アメリカとイギリスに対して、小笠原諸島の領有権が日本にあることを認めさせたのです。外国人が居住していた島だったにもかかわらず、二大国が主張していた島の領有権を欧米諸国に認めさせたというのは一流の外交手腕といえます。この時、忠徳のしたたかな交渉を支えたのが通訳の中浜万次郎でした。
明治九年(1876)、日本政府は各国に小笠原諸島の領有を通告、正式に日本領土となりました。明治一三年(1880)、小笠原諸島は東京府の管轄となり、居住していた外国人は全員、日本国籍を収得しました。
小笠原諸島は希少な自然が残る美しい島ですが、重要なのは自然だけではありません。二十一世紀の今日、日本の広大な排他的経済水域(領海含め世界第六位の約四四七万平方キロメートル)の約三分の一は、小笠原諸島を中心とする海なのです。その海洋資源と海底資源は膨大なものがあります。
もちろん当時の忠徳がそれらを知っていたはずはありません。しかし彼は領土・領海の持つ価値と重要性を十分に理解していました。だからこそ自ら島に乗り込み、領有権を確保したのです。もし忠徳と万次郎がいなければ、今日、小笠原諸島と周辺の海は外国のものとなっていたことでしょう。 |
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