~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
You Tube 日本国紀第34回
水野忠德
水野忠德みずのただのりも日本史で語られることは多くなりませんが、日本にとって忘れてはならない重要人物です。江戸幕府の旗本であった忠徳は、長崎奉行時代に幕府海軍創設に奔走し、外国奉行時代は安政二朱銀を発行して金貨の海外流出を防ごうとするなど、日本を外国から守るために尽力した有能な官吏ですが、彼の最大の功績は小笠原諸島を守ったことです。
江戸幕府は寛文かんぶん一〇年(1670)には小笠原諸島の存在と位置も把握していましたが、江戸から一〇〇〇キロも離れている同諸島を管理することは出来ず、長らく無人のまま放置し、国際的にその帰属も明確ではありませんでした。ところが十九世紀以降、同諸島に外国の捕鯨船がたびたび寄港するようになり、文政一〇年(1827)に難破したイギリスの捕鯨船の乗る組員二人が住みつき(同島で初めての定住者)、三年後の文政一三年(1830)には、アメリカ人ら五人がハワイ系の人々二十数人とともに入植しました。
一八五〇年代には、ペリーが寄港してアメリカ人住民の一人を小笠原の植民地代表に任命しています。同じ頃、イギリスが諸島の領有権を主張し、両国は領有権で衝突します。この時、小笠原諸島の領有権確保のために現地に赴いたのが水野忠徳でした。
文久元年(1861)、幕府の軍艦「咸臨丸かんりんまる」で小笠原諸島に上陸した四十六歳の忠德は、島々の測量等の調査を行なうと、欧米系の島民に対して、彼らの保護を約束して日本の領土であることを承認させます。一方アメリカとイギリスに対して、小笠原諸島の領有権が日本にあることを認めさせたのです。外国人が居住していた島だったにもかかわらず、二大国が主張していた島の領有権を欧米諸国に認めさせたというのは一流の外交手腕といえます。この時、忠徳のしたたかな交渉を支えたのが通訳の中浜万次郎でした。
明治九年(1876)、日本政府は各国に小笠原諸島の領有を通告、正式に日本領土となりました。明治一三年(1880)、小笠原諸島は東京府の管轄となり、居住していた外国人は全員、日本国籍を収得しました。
小笠原諸島は希少な自然が残る美しい島ですが、重要なのは自然だけではありません。二十一世紀の今日、日本の広大な排他的経済水域(領海含め世界第六位の約四四七万平方キロメートル)の約三分の一は、小笠原諸島を中心とする海なのです。その海洋資源と海底資源は膨大なものがあります。
もちろん当時の忠徳がそれらを知っていたはずはありません。しかし彼は領土・領海の持つ価値と重要性を十分に理解していました。だからこそ自ら島に乗り込み、領有権を確保したのです。もし忠徳と万次郎がいなければ、今日、小笠原諸島と周辺の海は外国のものとなっていたことでしょう。
薩長連合
話を長州と四国艦隊の戦いに戻しましょう。
欧米列強は「馬関戦争」の賠償金として三百万ドルを幕府に要求しました。ちなみに幕府は生麦事件の賠償金も払わされています。本来はそれぞれの藩が支払うべきもののように思われますが、外国からすれば、「統一国家ならば、賠償金はその政府が支払うべき」という見解でした。これは当然の理屈ともいえ、封建制度の矛盾が幕末に至って露呈したといえます。いずれにしても、この二つの賠償金によって、幕府の財政はさらに苦しいものとなりました。
欧米列強はそんな幕府の混乱に乗じ、慶応二年(1866)、条約に書かれた兵庫開港の後れを理由に、幕府に改税約書の調印をさせます。これにより輸入品の関税は五パーセントという低額になり、幕府は関税によって国庫を潤すことも難しくなりました。しかもこの時、それまでの「従価税」から「従量税」に改めさせられてしまいます、「従価税」は価格によって税額が変わりますが、この時の「従量税」は四年間の物価平均で定まる原価の五パーセントというものでした。つまり日本国内では物価が上がれば、実質的な関税率はさらに下がることとなったのです。実際、これ以降、外国製の安い製品が大量に入って来て貿易不均衡にばったばかりか、日本の産業が著しく打撃を受け、庶民の暮らしにも大きな影響を与えました。こうして民衆の幕府に対する不満も大きくなっていきます。
幕府は兵庫の開港の遅れや「日米修好通商条約」の勅許をめぐる薩摩藩との対立にも手を焼いていました。条約は安政五年(1858)に結ばれていましたが、朝廷の勅許がなく、幕府はイギリスなどから勅許を求められていたのです。
「勅許が得られなければ、直接、朝廷と交渉する」と幕府に告げる列強に対し、それだけは避けたい一橋慶喜(この時は将軍後見職から禁裏守衛総督となっていた)は孝明天皇を説得し、条約の勅許を取り付けます。このことに薩摩藩は怒り、反幕府の意思を固めます。
以前から政権交代を目論んでいた土佐藩の坂本龍馬さかもとりょうま(勝義邦かつよしくにの弟子)は今こそ、長州藩と薩摩藩が手を握るべきと考えましたが、長州藩は「八月十八日の政変」と「禁門の変」で、薩摩藩と会津藩に多くの藩士を討たれた上に、京都から追い出されていたこともあり、両藩には深い恨みを抱いていました。長州藩士は下駄の裏に「討薩賊会奸とうさつぞくかいかん(「薩摩の賊と会津の奸物かんぶつを討つ」という意味の言葉)と書いて、恨みを忘れずにいたほどでした。
薩摩もまた文久二年(1862)の公武合体運動を長州藩によって阻止されたことから恨みを抱いていて、二つの藩が手を結ぶことは無理と見られていました。
しかし日本で初めての貿易商社ともいえる「亀山社中」を作った龍馬は(近年、龍馬が作ったものではないとする説も有力となる説もある)、外国との取引を禁じられたいた長州藩に、薩摩藩名義で購入した最新式の武器を売るという奇策を講じて、両藩を近づけます。そして自らが仲介役となって、慶応二年(1866)一月、薩摩藩と長州藩の同盟を成立させました。この「薩長連合」が後に討幕の大きな力となるのです。
2025/11/18
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