以外に知られていませんが、幕府もまた近代化に懸命に取り組んでいました。欧米列強の脅威に対して、何とかしなければならないと考えていたのです。
その代表的な一人が
小栗忠順
です。二十代で異国船に対処する詰警備役となった小栗は、蒸気船を見て、日本は積極的に外国と通商をすべきだと強く主張しました。その後、目付となり、遣米使節団の一員としてアメリカに渡った時に、日本も近代的な造船所を作らねばならないと決意したのでした。
アメリカから帰国後の文久元年(1861)、ロシア軍艦による対馬占領事件の処理に当たった小栗(外国奉行になっていた)は、幕府に対し、「国際世論に訴えかけ、場合のよってはイギリス海軍と手を結ぶ」ことを進言しますが、受け入れられず、外国奉行を辞任しています。
翌年、三十五歳で勘定奉行になった小栗は、幕府財政の立て直しに取り組みます。
同時にフランスの助力を得て、製鉄所の建設を計画しました。幕閣からは反対されますが、将軍家茂の承認を得て、慶応元年(1865)に横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設を開始します。これは単なる製鉄所ではなく、造船所とドッグ(船の建造や修理のための施設)が一体となるものとして計画されました。その意味で、小栗は日本海軍の礎を築いた人物といえるでしょう。
造船所の施行監督だった栗本瀬兵衛くりもとせへえは、ある日、小栗から「ドックが出来上がった上は、たとえ幕府が滅んでも『土蔵付き売り屋』という名誉を残すでしょう」という言葉をかけられたことを後に書き残しています(栗本鋤雲じょうん『匏庵ほうあん遺稿』)。小栗は幕府崩壊の跡も見据えていたのです。
小栗は完成した製鉄所の所長にフランス人を任命し、社内教育、洋式簿記、月給制など、当時の日本では考えられなかった画期的なシステムを導入します。その中には残業手当の規約までありました。
日本の商人が海外貿易で外国と対等に渡り合えない原因は資本力の弱さにあると見た小栗は、江戸と京都と大坂の商人から資本を集めて、株式会社の「商社」を設立します(Companyを商社と訳したのは小栗と言われている)。
さらに陸軍増強のために、フランスから最新式の大砲や小銃を大量に購入し、フランスの軍事顧問団に訓練をさせました。同時に、小銃、大砲、弾薬の国産化を推し進め、ベルギーより弾薬用火薬製造機械を購入し、日本初の西洋式火薬工場をも建設しています。
小栗は文化面でも大きな功績を残しています。日本最初の本格的なホテル「築地ホテル館」を建設し、これも日本初となるフランス語学校(横浜仏蘭西語伝習所)を設立しました。同学校の卒業生の多くが明治政府に貢献しました。
小栗はこれをわずか数年でやってのけたのです。その先進性バイタリティーにはただただ驚嘆するほかありません。彼は幕藩体制を改め、中央集権体制へ移行することも考えており、徴兵制も視野に入れていました。明治の新政府で活躍した大隈重信おおくましげのぶは「明治政府の近代化政策は、ほとんど小栗上野介こうずけのすけの模倣にすぎない」と語っています。また明治三八年(1905)に日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎とうごうへいはちろうは、その七年後、自宅に小栗忠順の遺族を招き、「日本海海戦において完全なる勝利を収めることが出来たのは、軍事上の第一に、小栗上野介殿が横須賀造船所を建設しておいてくれたことが、どれほど役に立ったか計り知れません」と感謝の言葉を述べています。
しかし忘れてならないのは、小栗を重用し、存分にその力を振るわせたのが、徳川幕府であったということです。近代化を成功させた明治政府に比して、「徳川幕府は頑迷固陋ころうの体質を持ってた」と語らえることが少なくありませんが、決してそうではありません。ペリー来航以降は徳川幕府もまた、押し寄せる欧米列強の脅威を前に、懸命に近代化を進めていたのです。
もし小栗が幕末を生き延びていたなら、明治政府にとって、いや日本にとって大きな力となったことは間違いありません。そう私は断言します。彼の悲劇は後ほどかtることにしましょう。
なお、横須賀海軍工廠は、戦後、アメリカ軍に接収され、現在もアメリカ海軍横須賀基地の中で現役として機能しています。
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