今日、我が国の国旗に使われている「日の丸」は、島津斉彬が提案したといわれています。日米和親条約調印後、日本の船を外国船と区別するために船舶旗が必要となりました。
幕府は当初、白地に黒の横一文字の「大中黒」を考えていましたが、島津斉彬の進言によって「日の丸」の幟をのぼり用いることになり、嘉永七年(1854)七月九日(新暦八月二日)老中・阿倍正弘あべまさひろによって正式に布告されました。島津斉彬は鹿児島城から見た桜島から昇る太陽の美しさに、これを国旗にしたいと家臣に言ったとされています。それを受けて薩摩藩が建造した初めての洋式軍艦「昇平丸」を幕府に献上する際の航海で、日の丸を掲げました。
古代より日本では太陽が神聖視され、日本という国名にも使われています(日は太陽のことである)。興味深いのは源平合戦で使われた旗は、平氏へいしが「赤地金丸」、源氏げんじが「白地赤丸」で、両方とも日輪を表すものでした。そして、この戦いで源氏が勝利したことで、「白地赤丸」は天下統一の象徴になったといわれています。
江戸時代には「白地赤丸」が意匠の一つとして普及し、様々な場所で用いられ、幕府は公用旗として使っていました。家康ゆかりの熱海の湯を江戸城に運ばせる際には、その旗を立てたことから、「熱海よいとこ日の丸立てて御本丸へとお湯が行く」よいう唄も生まれています。その他にも幕府が所有する船に「日の丸」が描かれていた例など枚挙にいとまがありません。つまり「日の丸」は正式に国旗として決められる以前に、八百年以上も前から日本という国を象徴する旗として使われていたのです。
第二章で書きましたが、「彦」「姫」の語源が「日子「日女」であったように、私たちの祖先は自分たちを「太陽の子」と考えていました。『日本書紀にほんしょき
』には、九州から東に向かった神日本磐余彦天皇かんやまといわれひこのすめらみこと(神武天皇)が大阪で長髄彦ながすねひこ
に敗れた時のことが次のように描かれたいます。
「神武の軍勢は『自分たちは日の神(天照大神あまてらすおおみかみ)の子孫であるのに、日(東)に向かって戦ってしまったのは間違いであった」と考え、大阪を大きく迂回して熊野から大和平野へ入り、太陽を背にして(東から)長髄彦と戦って、これを破った」
「日の丸」は、こうした古いにしえからの歴史を背負った日本民族の旗なのです。
現代の一部の人々が「軍国主義の象徴である」という理由で、「日の丸」を嫌悪していますが、根拠不明のいいがかりです。歴史も伝統も知らぬ馬鹿者としかいいようがありません。
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